互いの吐息が感じられる距離
(愛しいヒト)






 今でもまだ夢なんじゃないかと思う時がある。
 我が家ではない場所にいる自分が、まだ信じられない。

 ……ここは彼の部屋。

 きちんと付き合う事になってから半年。
 私は一週間の半分をこの部屋で過ごしている。

 社内恋愛は禁止ではないけれど、彼の立場が微妙なので何となく言い難い。
 だから、公にする事もなく今までと同じように毎日が過ぎていく。

 出社時間は電車1本の差。
 いつものように仕事をして。
 少し早めに退社して。

 だけど、私が帰るのは自分の家ではなくて。
 食材を買って彼の部屋で夕飯を作って帰りを待っている。

 堂々と彼の部屋に入れる事が。
 彼の部屋で過ごせる事が。
 彼の服を洗濯する事が……そんな毎日が幸せだと思えるのだから私も重症だと思う。

 毎日のキス。
 週に何度かは愛し合って。

 だけど。
 重要なのはそこじゃなくて。

 後ろめたさや罪悪感を抱かずに彼の傍にいられる事。
 それが一番嬉しい。

 高校生のようにはしゃいだりはしないけれど、でも……あの頃を思い出すような想い。

 傍にいられる事が。
 一緒に食事できる事が。
 一緒のベッドで眠れる事が。
 彼の寝顔を見られる事が……幸せなのだ。





 真夜中。
 意味もなく眼を覚ましてしまう事がある。

 そんな時も、隣で眠っている彼を見るとほっとする。

 嫌な夢を見ても。
 不安になっても。
 彼の寝息を聞けばそんな感情も薄らぐ。

「……早夜子?」

 彼が寝ぼけた顔で私を見た。

「ごめんなさい、起こしちゃった?」

 ベッドにうつ伏せになって頬杖をついて、空いている左手で彼の髪を梳く。
 彼に触れる事でこれが夢ではないのだと実感する日々。

「どうした?」
「なんでもない」

 彼の顔に触れて、その体温を感じてほっとする。

 夢じゃない。
 これは現実なのだと。

「……時々こうして起きてるよね、何か不安な事でもあるの?」

 仰向けの彼の右手が私の髪を梳いて、耳に掛ける。

「達也さんの寝顔をもっと見たいだけよ」
「毎日見てるのに……」
「それでも見ていたいの」

 今まで見られなかった分、もっともっと見つめていたい。

「それなら……早夜子の部屋、引き払っちゃったら?」
「え?」

 引き払う?

「ここに引っ越してくればいい。ここが嫌ならば他の場所でもいい、一緒に住もう」
「え?」
「僕は言ったはずだよ、結婚前提に付き合って欲しいって」

 確かに聞いた。
 ちゃんと覚えている。

「ずっと見ていられるように一緒に住んだらいい。早夜子といられるなら僕はどこに住んでも構わないよ」

 きっと彼は分かっているのだ。
 私が抱えている不安やモヤモヤした気持ちも。

 この部屋には住みたくない。
 だって……ここは、前の奥さんと暮らした部屋なのだから。
 このベッドだってそう。
 前の奥さんと一緒に眠ったに違いない。

「週末、不動産巡りでもしようか。そろそろ僕も自分の家が欲しいし、家族が欲しい」

 家族……。
 それは妻?
 子供?

「早夜子が僕を見ていたいと思う以上に僕は早夜子を見ていたいよ。僕が見ていない間に心変わりをしてしまったらどうしようと不安でしかたがないんだ。僕は色々な意味で早夜子を独占したい」

 彼の言葉が嬉しくて。
 恥ずかしくて。
 どう反応していいのか分からなくて。

 私は仰向けの彼の胸に顔を埋めた。

「こんなに近くにいるのが夢みたいで、落ち着かないの」
「僕もだよ。目を覚ました時に早夜子がいないと……会社で早夜子が素っ気ないと、やっぱり夢だったんだと思ってしまうんだ。その時のショックは……早夜子には分からないだろうな」

 彼は小さく笑った。

「分かるわよ、私だって……不安だもの。今までの事が全部が夢だったらって思うと怖くて眠れなくなるの」
「現実だよ。ほら、早夜子はこんなに温かい。僕だって温かいでしょう?」

 彼の腕が私を抱き締めた。
 背中に回された手から温もりを感じる。

 彼の手が背中から首筋に移動し、私の髪を梳きながら耳を経由して頬で止まる。

「こんな至近距離で見るのは早夜子だけだよ。この部屋に入るのもこのベッドで眠るのも俺の寝顔を見るのも寝言を聞くのも早夜子だけだ」

 私の顔を両手で挟むようにして、彼が唇を寄せてくる。

「好き……大好き」

 言葉にしてもまだまだ足りない。
 そんな言葉じゃ足りない。
 伝えきれない。

「愛してるよ」

 彼の言葉で心が満たされていく。

 そう。
 好きという程度の子供の感情じゃない。

「私も……愛してる」

 彼は優しい眼で微笑んで。
 私が見下ろしていたはずなのに、あっという間に逆転して。
 私達は濃厚な夜を過ごした。





 目を覚ますと、吐息を感じられるくらいの距離に彼の寝顔があった。

 少しだけ伸びた髭がちょっとチクチクするけれど。
 そんな髭さえも愛おしくなる。

 髭を撫でて。
 軽くキスをして。
 彼の胸に顔を埋める。

「早夜子……君は朝っぱらから僕を欲情させてどうする気?」
「あ……。 おっ……おはよ」
「どうして君はそう可愛いんだ……今日が休日じゃないのが恨めしくなるよ」

 彼は苦笑して。
 小さな溜め息を漏らして。
 ぎゅっと私を抱き締めた。

 私はその胸でいつも願う。
 こんな風に、ずっとずっと……他の誰よりも近い距離にいられますように、と。






― Fin ―






2010.02.02

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