過去に置いてきたもの






 もう忘れた。
 忘れなきゃいけない。

 そう思うのに忘れられない私は、生きるのが下手な人間なのかもしれない……。





「相変わらず時間通りに来るのな、お前」
「いつも同じ電車に乗ってるんだからある意味当然だと思うけど?」

 屋上の隅で交わす会話。

 誰にも見つからない場所。
 誰もやって来ない場所

 そんな場所で約束をしているわけでもないのに会ってしまう。
 それが私とコイツの当たり前の日課。

「今日はまた一段と不機嫌だな、何かあったのか?」
「別に?」

 コイツは深い追求をしてこない。
 話したければ話せばいいし、話したくなかったら黙ってしまえばいい。
 そんな適当な関係だ。

「今日一日……乗り切れそうか?」
「微妙……。ねぇ、パワー頂戴」

 私は目の前の人物を見上げた。
 目の前の男は小さな溜息を漏らしながら私の顎に手を掛ける。

 触れるだけのキスが何度も繰り返され、キスは徐々に舌が私の口内を這い回るほど激しくなる。
 だけど、全然不快には感じない。

 それどころか苛立ったものが消えていく。
 冷静さを取り戻していく。

 私はコイツが好きなのだ。
 多分。

 アイツの次に。

 どうしてアイツなのだろう?
 どうしてコイツではないのだろう?
 何度考えただろう?

 アイツの言葉はどうして今も有効なのだろう?
 私の中でだけ。

 さっさと忘れ去ってしまえば私はきっと目の前の男を選ぶ。
 分かっているのに。
 なのに。
 どうしても忘れられない。

 いつの間にか、こんなふうに簡単にキスできる人間になってしまった。
 誰とでもできるわけではないけれど。
 相手は選んでいるけれど。

 私はあの日に……あの場所に、置いてきてしまったのだ。
 何も知らない純粋無垢だった自分を。

 アイツよりも私を想ってくれる奴がいるのに。
 なのに、どうしてアイツに拘るのだろう?
 自分でも理解できない。

 さっさとあんな奴の事など忘れてしまえ。

 自分に言い聞かせるように心の中で呟いて。

 私は、今日もアイツを想いながらコイツの腕の中にいる。






― Fin ―





(2010.05.05)

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