はじまりの場所






 長く勤めた会社を辞め、望月へと再就職した。
 上総君が送り迎えをしてくれるので、ありがたいのだが……正直、少々息が詰まる。
 自分が身重だという事は承知しているが、家と会社を往復するだけの単調な日々に飽きて物足りなさを感じていた。

 だからといって、何をしたいとか、どこへ行きたいなどという明白なビジョンなどなく。
 私は、ただ……ぽっかりと空いてしまった心の穴を埋める方法を見つけたかっただけなのかもしれない。

 付き合いが長い親友は、そんな私に気付いているようで、時折出掛けようと誘ってくれる。
 そんな彼女の気遣いがとてもありがたかった。

『生きてる?』
「死んでたら電話になんか出られないでしょ」

 親友は私の捻くれた対応も笑って聞き流してくれる。

『今日、海君いないんでしょ?』
「……なんで海のスケジュールを把握してるのよ?」

 夫である海と親友の澄香は私の知らないところで連絡を取り合っているようだ。
 そうでなければ、海のスケジュールなんて知っているわけがないのだから。

『海君がいない日をメールしてきてくれるんだよね。いつも最後は彩さんをよろしく、なんて定型文みたいに入ってるけど』

 海は家を空ける事が多い。
 彼の仕事が特殊だから仕方ないのである。
 結婚前から分かっていた事だ。

『でさ、久々に食事に出掛けない? 交通費くらい払うからタクシーで行こうよ。もうすぐでマンションの下に着くから』
「はぁ?!」
『家の中に篭ってたらカビ生えちゃうよ』

 澄香は笑いながら一方的に電話を切ってしまった。
 電波が切断されては文句も言えない。

 私はゆっくりと立ち上がって出掛ける準備を始めた。

 澄香の強引さはとてもありがたい。
 1人で時間を潰す方法など知らない私には、どんなに突然な誘いでも嬉しいものだった。

 驚きはするけれど。
 時折ムッとすることもあるけれど。
 呆れる事なんて数えられないくらいあるけれど。

 それでも私は、そんな澄香が大好きなのだ。

 準備に要する時間など微々たるもの。

 眼鏡をコンタクトに変えて。
 ちょっとだけお化粧を施して。
 上着を持ったら完了だ。

 まるで私が準備を整えたのを待っていたかのようにインターホンが鳴る。

「はぁい」
『着いたよ、下で待ってるから』
「はいはい」

 エントランスのカメラに澄香の姿。
 魚眼レンズを使ったかのように鼻が妙にアップになっている親友の顔に苦笑を漏らした。

 眺めていたテレビを消し、キッチンやリビングの電気を消して、玄関へと向かう。
 ヒールの低いパンプスに足を突っ込んで扉を開けると、左側から声が聞こえた。

「あれ?」
「ん?」
「今から出掛けるの、彩さん?」

 海の弟、上総君だ。

「澄香が……友達が下に来てるの」
「大丈夫?」
「友達のお父様が今の主治医さんだから、色んな意味で安心なの」
「でも、外も暗くなってきてるし気を付けてね」
「ありがと」
「あ、何時でも電話くれれば迎えに行くから」
「大丈夫、タクシー使うから。ありがと」

 玄関を施錠し、上総君の横を通り過ぎる。

「兄ちゃんは知ってるの?」

 背中に飛んでくる声は少々不安そう。
 兄弟揃って過剰に心配性だから困ったものだ。
 コレが息の詰まる原因なのだが……彼らに悪気はないので文句は言えない。

「大丈夫、その“兄ちゃん”が私のお守りを頼んだ相手だから」

 私は困惑する上総君に苦笑してエレベーターのボタンを押した。
 直前に上総君が使っていたらしく、最上階のこのフロアに停まったままだったエレベーターの扉はすぐに開いた。

「いってらっしゃい、彩さん」
「いってきます」

 守衛さんと上総君に小さく手を振るとエレベーターが降下を始めた。
 ほっと息を漏らして壁に身体を預けたが、あっという間に1階フロアに到着。

 エントランスを進んでいくと、マンションの前に停まった1台のタクシーが見える。
 後部座席から手を振っているのは親友だ。

 私が短い階段を降りていくと絶妙なタイミングでドアが開く。

「随分疲れてるねぇ」
「ん〜……単調過ぎて飽きてる」
「あ、新橋駅までお願いしまぁす」
「え」

 会社を辞めてから行く事のなかった駅名を聞き、私は素直に驚いた。

「大久保さんが彩の顔暫く見てないって言ってたよ」

 澄香は前方を見つめながら呟いた。

「……いつ大久保さんに会ったのよ?」
「先週?」
「何故に疑問系?」
「気にしなさんな」
「言われるほど気にしてないわ。ただ、澄香ってそんな最近の記憶まで曖昧になっちゃったのかなぁってちょっと心配になっただけよ」

 澄香は困惑した顔を私に向ける。

「こりゃ、相当溜まってるね」

 困ったもんだと呟いた親友が私の頬を軽く抓る。

「今日は大久保さんと私で聞いてあげる。あんたは吐きゃラクになる性格なんだから、全部吐き出せば暫くは精神的に平和でしょ」

 大久保さんの店の前に立つと、懐かしさがこみ上げてくる。
 相変わらず人気の大久保さんの店の外には会社帰りのOL達が列を作っていた。

「相変わらず、並んでるわねぇ」
「大丈夫、裏から入れって言われてるから」

 澄香は悩む事なく裏口へと向かい、当り前のように扉を開けて店内に足を踏み入れる。

「こんばんは、大久保さん」

 厨房に顔を出して大久保さんに声を掛ける。

「あ、いらっしゃい。久しぶりだね、元気だった? 座敷空けてあるから案内するよ」

 大久保さんが業界の人用にと用意した座敷へと私達を案内してくれた。

 妊娠中だからとソフトドリンクを頼んで、澄香と近況を報告し合う。
 澄香は下戸なので丁度いい。

 気が付けば、店内のお客さんの中に見知った顔もある。

「なんか……懐かしいなぁ」
「まだ、そんなに経ってないでしょうが」
「う〜ん、でも、凄くそんな気がする」

 大久保さんがおつまみを手にやって来た。

「上総君が送り迎えしてるんだっけ?」
「はい。助かるんですけど……なんだか生活が単調でつまらないというか……。プレゼンをする側がされる側になった事が大きいのかもしれませんね」
「ラクでいいじゃん」
「あの契約を取れるか取れないかの緊張感がないわけじゃない? 確かに大変な事なんだけど、それで得られる満足感とか充実感がなくなると張り合いがないというかなんというか……」

 胎教にいいとは思えないけれど、以前の方がやりがいがあった。
 海や社長たちに申し訳ないけれど……私はまだ、今の会社でやりがいというものを見付けられていない。

「わからんでもないけど、今はお腹の子どもの事を最優先に考えてやりなよ」

 澄香が手に持ったグラスを私の持つグラスにぶつける。

「仕事の事を考えるのもいいけど、お腹の子どもの事も考えてあげなきゃね。彩ちゃんの身体は今は彩ちゃんだけのものじゃなくて、お腹の中で育ってる赤ちゃんのものでもあるんだから」

 2人の言葉を聞いて、胸に痞えていたものがすっと消えて行くのを感じた。

 きっと、私は自分の事ばかりでおなかの赤ちゃんの事まで考えてなかった。
 やりがいや刺激、充実感や緊張、そういったものだけを求めていたのかもしれない。

「子どもの名前考えたり、胎動に幸せ感じたりってのは妊娠中しかできない事なんだから精一杯楽しんだ方がいいと思うよ」

 この店では沢山の事を教えて貰っている。
 説教されるというよりも、頑固な私の考え方を優しく変えてくれる。
 海との付き合い方に悩んだ時もそうだった。

 海と付き合い続ける決断をしたのもこの店。
 今の私がいるのもこの店と大久保さんのお蔭なのだ。

「私、いつも大久保さんに背中を押してもらったり励まされたりしてますね」

 大久保さんは照れくさそうに微笑んだ。

「彩ちゃんには元気な子を産んでもらいたいだけだよ。マタニティライフも楽しんでもらいたいし」
「今後の参考にもなるし?」

 澄香が意味深な笑みを大久保さんに向ける。
 見上げると、少し顔が赤い。

「……え?」
「大久保さんのとこも来年には家族が増えそうなんだよね?」

 この店から足が遠のいている間にそんな事になっていたとは……。

「おめでとうございます」
「ありがとう。でも、変な感じだよね、男は何の変化もないから」
「海も同じような事言ってました」

 笑っているうちに心が軽くなっていく。

 そして、思った。

 ここは居酒屋だけど、こうして時々大久保さんと話をするために来てもいいかもしれない、と。
 この店は……大久保さんは、元気をくれる。
 落ち込んでやって来ても、いつも帰る頃には自然と笑えるようになっている。
 私を否定しないように気遣いながら、正しい方向へと導いてくれる。
 海の話も気にせずに話せる数少ない相手でもある。

 私達は3人で何時間もくだらない話で盛り上がった。
 日付が変わりそうな頃、ようやく店を後にする。

 今日もやはり、笑顔で店を出る事ができた。

「大久保さん、また来ますね」
「待ってるよ。愚痴でも相談でも何でも話においで。聞いてあげるくらいしかできないけど」
「充分です」

 裏口から店を出て、駅へと向かおうとする澄香を引き留め、私はある場所へと向かった。

「どこ行くの?」

 怪訝そうな顔で澄香が付いてくる。
 説明する事なく進み、私はある場所で足を止めた。

「ここ」
「ここがどうかした?」

 私が指差す先には特に何もない。
 ビルの間の薄暗くて狭い空間があるだけだ。

「ここで初めて会ったのよ。ファンに追い掛けられてるあの子を助けた場所なの」
「へぇ……。ここから始まったんだ?」
「そう」
「ここで会わなきゃ今はなかったんだね」

 当時の記憶は、今でも鮮明に蘇ってくる。

 呆れたり戸惑ったりしたあの頃の自分。
 気持ちを否定したり、関係を終わらせようとしたり、今考えれば無駄に足掻いていた。

 今も海と一緒にいるから、こうして心穏やかにこの場所に立つ事ができる。
 別れを選択していたら、この場所には近付く事さえできなくなっていただろう。
 きっと、大久保さんの店にも行かなくなっていたはずだ。

 鞄の中で携帯電話が鳴る。
 取り出して相手の名前を確認。
 通話ボタンを押して耳に押し当てる。

「もしもし?」
『起きてた?』
「うん、澄香と一緒に大久保さんの店で夕飯食べてた」

 澄香がニヤケながら近付いて来て携帯電話を奪う。

「ちょ……っ」
「もしもし? 私達が今どこにいるのか分かる?」

 海の声は聞えないけれど、澄香は楽しそうに言葉を続けた。

「残念、大久保さんの店は出たんだ。今はね……思い出の場所にいるよ。彩と君が初めて出会った場所」

 電話の向こうの海がどんな反応をしたのかは分からない。
 けれど、きっと……私と同じような気持ちでいてくれているはずだ。

 私達の関係は、予期せず突然この場所から始まったのだから……。





― Fin ―


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