煙草の香り、とてもやさしくて、大好きな香り






 物音に気付いて目を開ける。

 キッチンの隅に彼の姿を見つけ、私はゆっくりと身体を起こした。

「まだ朝早い、寝てろ」
「寝すぎですよ。昨日も1日寝てたし」
「具合が悪い時は寝るしかないだろ」

 ここ数日間、体調不良でベッドと大親友になっていた。

 しかし、今日は気分がいい。
 しかも休日。
 寝て過ごすなんてとんでもない。

 洗面所には洗濯物もかなりある。
 体調のいい時に片付けてしまいたい。

「今日は気分がいいんです」
「……」

 私の言葉に渋い顔をしながらも文句を飲み込む彼を見て、こっそりと幸せを感じる。
 彼が私の意思を尊重してくれることも、私の心配をしてくれることも嬉しい。

 彼が私にくれた私の居場所。
 それが本当にここにあるのだと思うと更に嬉しくなる。

「無理だけはするな」
「はい」

 短い言葉に含まれる色々な意味。
 私が感じる彼の気持ちに間違いはない、多分。

 換気扇の下で煙草をもみ消して、彼がリビングを出て行く。

 その間に私はベッドから出てキッチンにある珈琲メーカーをセットする。

 食器棚にある色違いのマグカップを取り出して。
 昨日飲み会だった彼にミルクとスプーンを用意して。
 待っている間に食パンをトースターに入れて。

 たったこれだけの事ができない日もあると思うと情けなくなるが、これを許されているのが自分だけだと思うと顔が綻んでしまう。

「何ニヤけてんだ」

 キッチンの入口で呆れた顔を向けられて、私は小さく笑った。

「体調がいいと、真壁さんのお世話ができて幸せだなぁって思っただけです」

 もう、自分の想いを押し殺さなくてもいい。
 誰にも遠慮しないで想いを言葉に出来る。

「俺は……お前の世話はしたくない」
「ですよねぇ……健康管理、気を付けます」

 クシャクシャと私の頭を撫でられ、私はぎゅっと目を瞑った。

 その直後、煙草の匂いがきつくなって……唇に、冷たくて柔らかなものが触れた。
 ミント味のキス。

 いつも、煙草を吸った後歯を磨きに行く彼。

「煙草とミントの匂い……」

 彼の腕の中で小さく呟く。

「まだ臭いか? 服に染み付いてるのかもな」

 私を引き離そうとする彼に逆らい、彼の背中に手を回す。
 密着して心音が聞こえてきた。

 ほんの少しだけいつもより速い鼓動。
 そこから、彼の戸惑いが伝わってくる。

「おい……」
「ミントと煙草の匂いは、真壁さんの香りです。他の人の煙草臭は苦手でも、真壁さんの匂いだけは特別なんです。凄く落ち着いて、でもドキドキもして……今日も大好きだなぁって思うんです」

 煙草の臭いは苦手だ。
 臭いし息苦しくなるから。

 でも……真壁さんの吸う煙草の匂いだけは特別。
 ミントの匂いと、少しだけ使っているコロンの香りも混じって真壁さんだけの香りを作り出している。

 私の腰と後頭部に彼の手が優しく添えられる。

「大好きです」
「……足りない」

 私を抱き締める腕に少し力が篭る。

「真壁さんの傍にいられて、凄く幸せです」

 大好きな人の香りに包まれて過ごせるという幸せを、どんな言葉にすれば正確に伝える事ができるのだろう?

 背中に回す手の力を少し緩めて彼を見上げると、無表情とも思える顔をした真壁さんが私を見下ろしていた。
 唯一感情を見せてくれる彼の耳は真っ赤だ。

 それを見て顔が綻ぶ。

「何ニヤけてんだよ?」

 私の前髪を摘んで軽く引っ張りながら真壁さんの端正な顔立ちが近付いてくる。
 ゆっくり目を伏せると、すぐに唇が触れ合った。

 珈琲メーカーが抽出を終えたとアラームを発し、トースターが焼き上がりを知らせるが、真壁さんは私を解放してくれない。
 角度を変えながら繰り返されるキスに私までもが夢中になった。

 彼の唇が首筋に触れ、身体が小さく震える。

「真壁さ……」

 このままではベッドに連れて行かれると思った私は、ささやかに抗う。

 トースターの中の食パンも珈琲も食されるのを待っているのだ。
 今ベッドに向かうわけにはいかない。

「お〜い、真壁!」

 大きな声と同時に玄関のドアが乱暴に叩かれた。

「……チッ」

 インターホンというものを使用しない来訪者は、真壁さんの同僚で友人の春日さん。

 春日さんは社内で唯一私達の関係を知っている人物でもあり、私の体調不良の際にはお世話になっている方でもあるわけで……。
 真壁さんは返事をしないわけにもいかないらしく、私を解放して玄関へと歩いていった。

 私は胸元に手を当て、自分を落ち着かせるように深呼吸。

「桜ちゃ〜ん、ご飯食べたぁ?」

 玄関から声が飛んできた。

「あ、これからで……」
「帰れ。休日まで貴様の顔なんざ見たくもないし、声も聞きたくない」
「何言ってんだよ、寂しいくせに。俺に会いたかっただろダーリン?」
「芽生えた殺意をどう消化してくれようか」
「げ」

 今日も仲良しな2人である。

「真壁さん、食パンがトースターの中で冷たくなってますよ」

 リビングから声を掛ける。
 真壁さんも本気で追い返そうとはしていないのだ。

 ただ、家の中に通すには理由が必要らしい。
 ちょっとだけ面倒な性格の恋人。

 だけど、そんな彼が私は好きなのだ。
 ちょっと捻くれていて、言葉足らずで、表情は乏しいけれど実は優しくて、面倒見が良くて、お人よしな彼が。

「あぁ……だったら残飯処理機がいる。何も塗らないで出してやればいい」
「できれば何か塗って欲しいかも……」
「贅沢を言うな」

 2人が並んでリビングに入ってくる。

「おはようございます」
「おはよ、桜ちゃん。体調はどう?」
「見たら分かるだろ」

 最近では定位置になりつつあるカウンターの席に2人が腰を下ろす。
 いつも私が座る場所に真壁さん、真壁さんの席には春日さん。

「春日さん、祈さんがイチゴジャムをくれたんですけど、使います?」
「お、使う使う!」

 真壁さんは甘いものが好きではない。
 だから、当然使わない。
 私が目の前で使うのも嫌がるので戸棚の中で眠っていたのだ。

 祈さんのささやかな嫌がらせなのだと真壁さんも感じているらしい。
 真壁さんのいない時間帯にやって来ては甘いものを置いていくのだから、余程鈍くなければ気付くだろう。
 自分へのみの嫌がらせである事から、彼女の気が済むのならばと容認している感がある。

「ほら、餌だぞ」

 お皿に乗った冷えたトーストを真壁さんが春日さんに突き出した。

「本当に冷えてるし!」
「冷えてるから貴様にやるんだ」
「桜ちゃん! 本当にこんなヤツでいいの?!」
「イチゴジャムだったら冷えてても大丈夫ですよ」

 こんな時味方をするのは当然恋人。
 私は春日さんにジャムの瓶を差し出しながら微笑んだ。

「桜ちゃん! こんなヤツに染まっちゃ駄目だ!」

 春日さんがジャムの瓶ごと私の手を握って顔を近付けてくる。
 煙草の臭いがして、私は顔を顰めながら背けた。

「そんなに早死にしたいのか貴様は」

 気が付いたのか無意識なのか真壁さんが私から春日さんを遠ざける。
 私はほっとして2人をみた。

 やはり……真壁さんの匂いは大丈夫なのに、春日さんの臭いは駄目らしい。
 煙草の香りがこんなにも違うとは新たな発見だ。

「桜ちゃん、なんで顔背けるかな?」
「あはは、煙草の臭いがちょっと……」
「真壁の方が臭うでしょ、こいつの方がヘビーなんだから」

 確かに。
 春日さんは1日1箱も吸わない。
 一方、真壁さんは1箱以上2箱未満。

 春日さんよりも真壁さんの方がキツイ煙草を吸っていた記憶もある。

「なんででしょうね? でも……真壁さんのは大丈夫なんです、私」
「……惚気?」
「ふふっ」

 私は春日さんに微笑んで視線を真壁さんに移した。

 言葉でハッキリ言ってしまってもいいけれど、多分彼はそれを嫌がる。
 人前でそういったことを言われるのは好きではないのだ。

「あぁ……なんか胃もたれ。惚気でおなかいっぱいだな」
「じゃあ帰れ」
「いや、出されたものは残さず食べるのが俺のモットーだから」
「それは常識だ」
「ってことでいただきます」

 春日さんは両手を合わせてからジャムの瓶を開けた。
 真壁さんはキッチンに入ってきてトースターの中から焼きたてのパンを取り出す。

「真壁さんの匂いだから特別なんだって再確認しちゃいました」

 隣に並んだ真壁さんに小さな声で告げると、驚いたような表情で私を見下ろした。

「苦手だった事は否定しませんけど……今では大好きな香り、それも事実なんですよ?」

 煙草を吸う姿もその匂いも。
 仕草全てが、匂い全てが……真壁さんの一部分だから。

 私はブルーのマグカップを真壁さんに差し出した。

「くそっ……」

 真壁さんが苦々しい表情で呟く。
 私は小さく首を傾げて彼を見た。

「あとで……覚えとけよ」
「え?」

 真壁さんは私の腰を撫でるようにして席へと戻っていった。






― Fin ―
幸せならOK、ってコトで。



2011.05.05

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