生まれてきてくれてありがとう






 残暑が厳しい9月。

 最愛の(ひと)のお腹は破裂しそうなほど膨れ、時折不気味なほど変形するようになっていた。

 ……そう、俺と彼女の愛の結晶が彼女の中ですくすくと育っているのだ。
 彼女の中に芽生えた命。
 気が付けば、9ヵ月目に突入。

 来月には誕生するだろう。

 しかし……俺は男だからなのかイマイチピンと来ない。
 いつもと同じようで違う。
 日に日に変化していく彼女の身体と心。

 なのに、俺は……どこか他人事のように思えていた。

 彼女の出産が近付いてきても俺の日常に変化はない。

 いや、ないわけではない。

 彼女のお腹が破裂しそうなほど大きくなっているのを見る度に不安になる。
 仕事に行くのを躊躇う日が増えた。
 お腹が張っていると言われると怖くなる。

 ニュースで妊婦という言葉が聞こえると無意識に耳を傾けていたり。
 それが良くないニュースの連続だったせいもあって不安だけが大きくなって。

 稀にとはいえ、出産トラブルというものがあるらしいのだ。
 最悪の場合、出産時に母子共に亡くなるケースもあるなどと言われたら不安にならないはずがない。

 携帯電話を手に溜め息が漏れる。

「元気がないな、海君」

 空いている隣のフォールディングチェアに監督の龍田さんがどっかりと腰を下ろす。

「あ……」
「落ち着かない気持ちは理解できるが……そういう時ほどスムーズに撮影を進めて欲しいもんだ」

 龍田さんの言葉に、俺は顔を上げた。
 目が合うと、龍田さんはにっこりと微笑んで口元に手を当てる。

「君の結婚会見からもう半年近くなる。……そろそろなんだろ?」

 くぐもった声だったがハッキリと聞き取れた。
 目を見開くと、龍田さんがにやりと口の端を持ち上げる。

「やっぱり……そうだったんだな」

 柴田さんは俺達の背後で真っ青な顔をしている。
 俺の背中にも冷たいものが流れた。

「心配は要らない。俳優望月 海は俺のお気に入りだ。最高の被写体に消えてもらっては困る。君にとってマイナスになるような事は一切他言しない。逆に協力を申し出たいくらいだ」

 龍田さんは業界でも顔の広い人で、この人に逆らうと干されるという噂も聞くほどだ。

「時に、海君」
「……はい」
「スケジュールを少し変更する気はあるかい?」
「え?」
「なに、大した理由はないよ。ただ……そうやって少しずつ前倒しで録っておけば万が一の時に困らないと思ってね」
「監督……」
「緊急事態の時は俺にだけ知らせてくれればいい。後は何とかする。新しいスケジュールは事務所と相談して決めさせてもらってもいいかな?」
「あ、はい……」

 龍田さんは悪戯な笑みを浮かべて俺の腕を叩き、話は終わったとばかりに立ち上がる。
 何事もなかったかのように撮影スタッフの方へと向かい、何やら話しだす。

「……参ったな」
「っとに、嫌な汗が噴き出たわよ。心臓に悪いったらありゃしない」

 俺と柴田さんは顔を見合わせて苦笑した。





 撮影は順調に進んでいた。
 監督のスケジュール変更のお蔭で、撮影開始直後に地方ロケの大半を撮り終え、最近は都内での撮影が主となっている。

 都内であれば緊急時に駆け付ける事が難しくない。
 地方にいるよりも安心して撮影に挑める。

 今日も撮影所内での撮影。
 いつもと違う点を言えば、やや空気がピリピリしているところだろう。

 龍田さんが台本を片手に俺の方へとやって来た。

「美代」

 厳しい表情で相手役の役名を呼ぶ。
 龍田さんの目は睨むように相手役の女を見ていた。

 それもそのはず。
 彼女はこのシーンで既に10回以上のNGを出しているのだ。

「長台詞を読むだけなら素人でも出来るぞ。いい加減感情を入れてくれないか?」
「……すみません」
「泣くな、次のシーンに涙は必要ない」

 龍田さんは冷たく言い放つと俺に振り返った。

「海君」
「はい」
「次に彼女が台詞に詰まったらアドリブでフォローしてみてくれないか?」
「あ、はい」
「それが上手くいったらそっちでいくから」

 龍田さんが自分の特等席である場所へと戻って行く。

「台詞……全部言わなくていいよ」
「……え?」
「これ以上監督を怒らせたくないでしょ? だったら、俺の演技に合わせてくれればいい」

 俺は相手役の女に台本を渡した。

「要はこの流れを変えなきゃいいのさ。流れさえ分かってれば合わせられるはずだ」
「……頑張ります」
「今までも頑張ってたなら“はい”でいいんじゃないの? “頑張ります”って言葉は今まで頑張ってなかったみたいに聞こえる」

 相手役の手から台本を抜き取って近くのスタッフに手渡す。

 その時、スタジオの隅で電話をしている柴田さんの姿が見えた。
 背を向けているので表情は見えない。

 けれど……。
 嫌な予感がした。

「海君、いいかな?」
「あ……」

 声が詰まったように出て来ない。
 動揺からなのか、視線が彷徨う。

「海君?」

 龍田さんが怪訝そうな顔で撮影所の中を見渡す。
 その眼は、すぐに電話中の柴田さんを見つけた。

「海君も疲れたようだし、少し休憩しよう」

 龍田さんの言葉を合図にスタッフや共演者が動き出す。
 俺はセットの中に佇んだまま、電話中の柴田さんの背中を見つめていた。

 彼女の……彩さんの出産予定日まであと10日。
 いつ生まれてもおかしくない状態だ。

 俺は自分を落ち着かせるように深呼吸を繰り返した。
 そして、柴田さんに歩み寄る。

「分かったわ。何かあったら連絡をお願いね」

 柴田さんが電話を切って振り返った。

「?! かっ……! 黙って背後に立たないでくれる?! 怖いじゃないっ!」
「今の電話……誰?」

 驚いて大きく後退りした柴田さんに俺は尋ねた。
 余程余裕のない顔をしていたのだろう。
 柴田さんは、苦笑しながら告げた。

「……朝から陣痛が始まってたみたい、もう分娩室ですって」

 とうとうその時が来てしまった。

 嬉しいはずなのに。
 楽しみにしていたはずなのに。
 今の俺を包み込んでいるのは大きな不安だけ。

 こんな時に、傍に居てあげられないなんて……。
 すぐに帰ってあげられないなんて……。

 俺は拳を握り締めた。

「海君」

 背後から声を掛けられて俺は黙って振り返った。

「いよいよ……かな?」
「……はい」
「さっさと躓いてるシーンだけ撮ってしまおうか。それで今日は終わろう」

 龍田さんの言葉に俺は顔を上げた。
 優しい顔が俺を見つめている。

「あと少し、頑張ってしまおう。明日も休むんだろ?」
「監……」
「なに、問題ないよ。そのためにスケジュールを調整したんだから」

 龍田さんの言葉に俺は、言葉ではなく深く長いお辞儀で返した。
 感謝という言葉だけでは言い尽くせない。

 監督が定位置に戻って打ち合わせを始めたのを確認。
 俺は集中するために、耳を塞いで目を閉じた。





 道は渋滞していた。
 帰宅ラッシュの時間帯なのだろうか。
 どんなに焦っても苛立っても車は進まない。

 分かっているけれど腹が立つ。
 時計と携帯電話ばかりが気になる。

 先程から変わらない窓からの景色を見て溜め息。

「バイクならスイスイ行けそうだよね」
「車は車体が守ってくれるけど、バイクはそのまま吹っ飛ぶんだから、バイクの免許が欲しいとか言い出さないで頂戴」
「さすがにそれは言わないよ」

 意味のない言葉のキャッチボールも続かない。

「あと少し行けば抜け道があるってのに……」

 カーナビの画面は1時間半後を到着予定時刻として表示していた。
 もう20キロもないというのに。

「海っ! 飛ばすわよ、しっかり掴まってなさい!」

 抜け道へと続く道をようやく左折した柴田さんは、通常では考えられない荒さとスピードで目的地を目指す。

「わっ!」
「喋ると舌噛むわよ!」

 車はあっという間に病院に到着した。

「気持ち悪い……」

 俺は見事に車酔いしていた。
 今までに乗り物に酔った事はない。
 初めての経験である。

「望月さん」

 駐車場の裏口から看護師さんが俺を呼んだ。
 ふらつきながら看護師に近付くと、彼女は無言で歩き出した。
 付いて行くしかないようだ。

「あ、海君!」

 LDRと書かれた部屋の前の長椅子から立ち上がってこちらに手を振る人物がいる。

「澄香サン? ……仕事は?」
「彩の大事な時に暢気に残業なんかしてらんないでしょ」
「とか言いながら、随分と余裕だね。飴玉ゴリゴリと齧って」
「そりゃ……私達に出来る事なんて、ここで待ちながら母子共に健康であってくれる事を願うだけじゃん」

 澄香サンの言葉に俺は苦笑した。

 そうだ。
 頑張れるのは彩さんだけ。
 俺達は待つ事と願う事しかできない。

 立ち会い出産を希望してみたが、彩さんが絶対に嫌だと言って断ってしまったのだ。

「朝からだって言うから、結構時間掛かってるけど……まぁ、初産だしね」

 扉を見つめながら澄香サンが呟く。
 俺は澄香サンの隣に腰を下ろした。

「随分顔色悪いね、緊張?」
「……車酔い」
「……急いで来たんだ?」
「……うん」

 俺の隣では柴田さんが壁に凭れている。
 その手は携帯電話を握っていて、無意味に開閉を繰り返していた。

「そう言えば……名前、考えたの? 彩が名付け担当は海君だって言ってたけど」
「うん。でも内緒」

 人差し指を口の前に立てて微笑むと、澄香サンが顔を赤らめた。

 静かな廊下に赤ん坊の声が響き渡る。

「……!」
「生まれた……?!」

 扉に耳を当てると、間違いなくそこから鳴き声は聞こえた。

「……彩さん」

 早く会いたい。
 無事を確認したい。
 不安で仕方がない。

 そして、早く言ってあげたい。
 お疲れさまって。

 看護師さんが部屋を出て来た。

「おめでとうございます、望月さん」
「あっ、あの……! 彩さんは?!」
「大丈夫ですよ、今母子共に処置中ですのでもう少しお待ち下さいね」

 看護師の着ている服には血液が沢山付着していた。
 その後ろ姿を見送りながら再び不安が押し寄せて来る。

「血が……付いてた」
「そりゃ付くでしょうよ」
「彩さん……大丈夫かな?」
「大丈夫だって言ってたでしょうが」
「でも……」

 オロオロする俺を笑う声があった。
 顔を上げると、そこには澄香サンのお父さんである彩さんの主治医がいた。
 左手で俺を手招き、右手には何かを抱えている。

 俺は招かれるまま室内に足を踏み入れた。

「おめでとう、元気な女の子だよ」

 井守先生は、慎重に手の位置を調整しながら、真っ白なタオルに包まれた赤ん坊を俺に抱かせた。

 真っ赤な顔。
 ふやけたような皮膚。

「……猿みたいで笑える」

 言葉とは裏腹に何故か涙が溢れてきた。
 小さな赤ん坊は安心したように眠っている。

「海?」

 マッサージチェアのような椅子に座ってぐったりしている彩さんがいた。

「彩さん……」

 俺は彩さんの傍に行き、赤ん坊を彼女に抱かせた。

「お疲れさま、彩さん」
「海が泣いてるのを見たのは2度目ね」

 俺の涙を、彩さんがそっと指で拭う。

「彩さんが無事で……赤ん坊が無事で……ほっとしたんだ」
「女の子ですって」

 腕の中の赤ん坊を優しく見つめながら彩さんが呟いた。

「初めまして赤ちゃん、やっと会えたね。元気に生まれて来てくれてありがとう」

 俺は2人を抱き締めるようにして、彩さんの唇と赤ん坊の額にキスを落とした。

「桜、パパとママだよ。これからよろしくね」
「さくら?」
「うん。女の子だったら絶対に“桜”にするって決めてたんだ」

 彩さんが不思議そうな顔で俺を見上げる。
 俺は記者会見の日を思い出して微笑んだ。

「記者会見の日……撮影所で綺麗な桜が舞ってたんだ。社長がさ、俺の幸せを喜んでくれてるみたいだって言ってた……そうだったらいいなって……幸せの象徴になってくれればいいなって思ってさ……」
「そう……。桜……貴女のことよ、素敵な名前ね」

 彩さんが赤ん坊の頬を優しく突く。

「桜、皆で幸せになろうね」

 人差し指1本で、柔らかな産毛のような髪しかない頭を撫でる。

 その時、彩さんの腕の中で眠る“桜”が小さく笑った気がした。

 幸せを運ぶ桜。
 ようこそ、望月家へ―――――。






― Fin ―




2012.01.01

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