有名人な彼
番外編
― 気になる腕時計 ―
最近、少し気になっている事がある。
今まで気にもしていなかったような事なのだが……。
「ただいま、彩さん」
海は私が食事を終え、寝る支度を終えた頃に部屋にやって来た。
日付もあと数分で変わってしまうような時間だ。
「お帰り。ご飯は?」
「頂戴。今日昼から何も食べてないしお腹ペコペコ」
倒れ込むようにソファに転がった海はあっという間に寝息を立てていた。
映画とドラマの撮影で国内外を飛び回っているのだから疲れていて当然だ。
映画は時代劇、ドラマは現代ものなので役の切り替えも大変だと思う。
同時期に全く違う作品を撮るというのは好まれないようだが、海は人気俳優。
どうしてもこういう状態になってしまうようだ。
「海、待ってる間にお風呂行きなさい」
「ん〜……」
「お腹が膨れたらもっとしんどいわよ」
大きな身体を猫のように丸めて眠る海に私は苦笑した。
「海」
傍に歩み寄ってその身体を揺すると、顰めっ面で唸る。
それでも寝ようとするのだから仕方がない。
私は海の身体の線をそっと手でなぞる。
「……っ?!」
びくっと身体を震わせて海は目を開けた。
最近では海の操作方法も随分上達したと思う。
「彩さん……っ?!」
「私が言った事聞いてた?」
「え?」
「……聞いてないんだ? そうだと思った、別にいいけど」
「ちょっ……何? 何を言ったの?! ごめん、眠くて聞こえてなかった!」
勢いよく身体を起こして、慌てたように私の服を掴む海。
「いいわよ、寝てれば?」
「寝れない、このままじゃ不眠症になるくらい気になるっ!」
海の手を払って私はキッチンに戻る。
そのあとを海が付いて来る。
「彩さん……ごめん」
「いいわよ、疲れてるんでしょ」
「良くない! ちゃんと聞くから教えて? 何を言ったの?」
情けない顔で私を見る海は捨て犬のようだ。
そんな海が可愛いと思える私もかなり毒されていると思う。
「……ご飯待ってる間にお風呂行って、って言ったのよ」
海は私を後ろから抱き締めてクスクスと笑った。
「焦ったぁ……」
「カラスの行水でいいから行って来て。お腹いっぱいになってお風呂に行ったら溺死するわよ、あんたの場合」
海は私の首筋にキスを落として離れ、カウンターの上の籠に身に付けているものを入れた。
「湯船には入らない方がいいわよ」
「うん、入ったら寝ちゃいそうだしね」
海は服の中に何もないのを確認すると、浴室へと向かった。
私は夕飯の準備を整え、海がまだ出て来ないのを確認してから籠の中を見た。
携帯電話に部屋の鍵、財布にチェーンに通された結婚指輪、そして……。
やっぱり今日もある……。
随分と使い込まれた腕時計。
文字盤のガラスも傷だらけ。
コーティングだって剥がれかかっている。
特別高いものではなさそうだ。
海の給料だったらもっと高級な物だって買えるはずなのに……。
この時計は特別な物なのかもしれない。
誰かに貰ったものなのかしら?
誰かって……誰?
もしかして、女性……?
自分がこんなに嫉妬深いとは思わなかった。
女性からだと思うとゴミ箱に叩き付けたくなる。
「彩さん?」
海の声に私は勢いよく振り返った。
濡れた髪をタオルで拭きながら海は私を見下ろしている。
「その時計がどうかした?」
慌てる事もなく訊いてくる海に疚しい気持ちなどなさそうだ。
「随分使い込んでるのね」
「うん、大事な物なんだ」
「誰かに……貰ったの?」
「うん」
海の目が懐かしそうに時計を見つめる。
「……誰?」
こんな事訊いていいのか分からないけれど……。
「上総」
「へ?」
予想外の名前に私は裏返ったような声を漏らした。
「このマンションに上総と巴と円と引っ越してきて……最初の誕生日に上総がくれたんだ」
上総君というのは海の部屋の隣に住んでいる弟さんだ。
「あの頃はさ、マンションの支払いのために必死で仕事してたんだ。寝る時間も今以上に短くてさ……でも、3人のためにも俺が頑張らなきゃって思ってた。毎年誕生日が近くなると撮影現場で誕生祝いとかしてくれるんだけど、気持ちなんか篭ってないから虚しいだけでさ。嬉しいとかっていう感情が俺の中からなくなってたんだよね」
海が私の掌に乗る時計に手を伸ばす。
「巴と円は洋服をくれた、上総からはコレ。俺が日付も時間も分からないまま過ごさないように、ってさ」
上総君は海と仲がいい。
兄弟というよりも親友のようだ。
「優しいのね、上総君」
「これを貰った時に久しぶりに嬉しいって思ったんだ。人間に戻れた、って感じ? 今考えると、あの頃も俺おかしかったんだなぁ……」
「あの頃、も?」
「1回目は上総に救われて、2回目は彩さんに救われたんだね……俺」
その言葉で思い出す。
随分前、本当の自分を見失っていた頃があったと言っていた事を……。
その時計はきっと本当に海を救ってくれたのだろう。
もし、この時計がなかったら、海はどうなっていたのだろう?
疲れきって芸能界を去っていたかもしれない。
もしそうなっていたら、私は海とこんな関係になりはしなかっただろう。
出会っていても、あの時のように助けたりはしなかったから。
有名人だから放置できなかっただけ……海が一般人であればファンの子に追われる事もなかったし、携帯の充電器くらい普通に購入できたはず。
そう思うと、上総君からの贈り物の時計が私にとっても大事な物のように思えた。
「でも……なんでこの時計持ってたのさ? そんなに気になった?」
しまった……何も考えてなかった。
「あ、えっと……」
「もしかして……女に貰った物だとか思ってた?」
一発で言い当てられた私は暴れる心臓を押さえるように胸に手を当てて視線を逸らす。
「そ……そんなわけないでしょ。ただ、海のお給料ならもっと高級なものだって買えるのにって思っただけよ!」
背中を向けたけれど、海にはお見通しだったのかもしれない。
背後から優しく抱き締められて、耳許に掛かる息が更に私から落ち着きを奪う。
「彩さん、俺には彩さんだけだよ」
「しっ……知ってるわよ」
「女から貰った物なんか何も持ってない」
「ファンの子からたくさん送られてきてるじゃない」
「事務所の人達で分け合ってるみたいだし、余ったらリサイクルショップ行き。そのお金は社長と柴田さんと3等分してる」
「……最低」
「ちゃんと受け取って身に着けた方がいいの?」
それは嫌……。
海は私の顔を覗き込んで微笑んだ。
「そんな顔しなくても彩さん以外から貰ったりしないし、衣装でもない限り身に着けたりもしないよ?」
どんな顔してるって言うのよ?
悔しい……。
っていうか、海に物をあげた事なんて1度もないし。
「愛してるよ、彩さん」
海の唇が顔中にキスを降らせる。
その途端にファンの子からの贈り物の行く末なんかどうでもよくなって。
気が付けば私はソファに押し倒されていて……。
「……海?」
「煽ったのは彩さんだよ、責任取ってよね?」
遅めの夕食は確実に夜食となって、再び温め直す破目になってしまったのは言うまでもない……。
― Fin ―
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