有名人な彼
第3話






 浴室から出てくると、男はお預けを食らっている犬のような状態でローテーブルの前に座っていた。

「先に食べればよかったのに」
「彩さんと食べたかったから」

 可愛い事言ってくれるじゃない。

 私は笑いたいのを我慢してキッチンに向かった。
 シャワーに行く前にセットした珈琲はいい香りを部屋中に充満させている。

「珈琲飲む?」
「うん、ミルク入れて」
「自分でやんなさいよ」

 何様よ?
 ……って、天下の望月 海様よね。
 だからって甘やかしたりしないんだから。

「彩さん冷たい……昨日あんな事したのに……」

 あんな事って……。

「馬っ鹿じゃないの? 1回寝たくらいで調子に乗らないで」

 そうよ、酔った勢いよ、そうに決まってる。
 そうじゃなきゃ困る。
 そうしといて。
 でもってここを出て行ったらすぐに記憶から抹消して欲しい。

 私はカップとミルクを男の前に置いてカウンターの椅子に腰を下ろした。

「何でそんなに離れてんのさ?」
「近寄りたくないから」

 カップを口に運びながら答える。
 朝のニュースを見ながら会話もなく食事をしているとインターホンが鳴った。

 お迎えかな……?

 しかし、部屋番号を教えた記憶はない。

「これ、知り合い?」

 男に尋ねた。

「うん、柴田さん。マネージャーだよ」
「何で私の部屋番号知ってるの?」
「彼女、勘がいいんだ」

 そんなわけないでしょ。
 コイツに訊いた私が馬鹿だった……。

「今開けますね」

 私はエントランスのロックを解除した。

 程無くして玄関のインターホンが鳴る。
 玄関を開けると間違いなく怒っている顔があった。

「海……いますよね?」
「はい。さっさと撤去して下さい」

 私はそう言ってリビングに戻った。
 女性が後ろから付いてくる。

 柴田さんという女性は私よりも年上だと思う。
 多分40くらいだろう。
 バッチリと化粧を施していて、スーツ姿もキマっている。
 綺麗に後ろで纏め上げている長い髪は清潔感と几帳面さを感じさせる。
 仕事できます! という感じのキャリアウーマン。

「海、あんた何考えてるの?!」

 勝手に上がり込んできた柴田さんは男を怒鳴りつけた。
 挨拶よりも怒る方が優先するとは、昨日……もしくは今朝、相当困ったのだろう。
 そして、焦ったに違いない。

「彩さん……なんで入れちゃうのさ?」
「さっさと出て行って欲しいから」

 柴田さんが不思議そうに私を見る。

「あなたが五十嵐……彩さん? 同居人さんとかじゃなくて?」

 名乗った覚えもないのになんで私の名前知ってんのよ?
 この男は私の名前まど伝えていなかったはず。
 この2人、本当に気味が悪い。

「……そう、ですけど? それに私は1人暮らしです。ルームシェアはしてません」

 柴田さんが男に視線を戻す。

「あんた……」

 彼女が飲み込んだ言葉が凄く気になる。

 まぁ、どうせロクな事ではないだろうけれど。
 そんな言葉を気にするよりも何よりも早く出て行って欲しい。

「お迎えも来たんだし、さっさと帰りなさい。さようなら」

 私は男の荷物を纏めて柴田さんに手渡した。

「この子の荷物はこれで全部です」
「彩さぁん……」
「情けない声出さない! そういう男は嫌われるわよ」

 男の背中を押しながら玄関に向かう。

「ご迷惑をお掛けしました」
「2度と目を離さないようにお願いします」

 柴田さんは苦笑しながら私に頭を下げて出て行った。
 玄関を閉めた私は、鍵を掛けてその場にしゃがみ込んだ。

「何だったんだろ……」

 夢か現実か分らない朝だった。





 月曜日。

 いつもの電車で会社に向う私は、これまたいつものように早朝から開いている店で朝食を摂っていた。
 いつもの電車。
 いつもの店。
 いつもの朝食。
 これがいつもの私の朝。

 2日前の事など忘れそうになっていた。
 違和感の残った身体とそこら中に付けられたキスマークさえなければ、だけれど。

 食事を終えて珈琲を飲んでいると携帯が鳴った。
 背面ディスプレイにメールのアイコンと “望月 海” の文字。

 あいつに教えた覚えはない。
 登録した記憶もない。
 決して酔っていたわけではない。

 ……あの男、勝手に触ったわね?

 私がシャワーを浴びている間しかないだろう。
 携帯を開き受信ボックスを開く。

『おはよう彩さん。今日も仕事頑張ってね。俺も頑張るから♪ 今晩行ってもいい?』

 この文章は何なんだろう……?
 どう見ても “今晩――” の前の文章はおまけだ。

「馬っ鹿じゃないの?」

 私は携帯を眺めながら微笑んだ。
 そして男に返信した。

『二度と来るな』





 定時を1時間ほど過ぎた頃、同僚が私の傍にやって来た。
 丁度キリのいいところだったのでグットタイミングだ。

「彩ちゃん、そろそろ行かない?」
「行く!」

 あの男の事を考えたくなかった。

 昼休みやちょっとした空き時間に思い出してしまうあの男の顔。
 ただの遊びだと分かっていてもつい見てしまう受信箱のメール。

 らしくないわよ、五十嵐 彩!

 仕事を終え、着替えを済ませた私は同僚達とエントランスで待ち合わせて新橋のいつもの店へと向かう。

「あ、彩ちゃん今日のプレゼンありがとね。俺、英語苦手でさぁ……」

 海外との取引の多い会社で英語が苦手ってどうなんだろう?
 よく入社できたなぁ……。

「大丈夫、クレインさんとは面識もあったし」
「やっぱ彩ちゃんだよなぁ。俺と付き合おう」

 どんな理屈よ?

「今日のは決まりでしょ? 彩ちゃん、付き合うなら俺とにしようよ」

 あぁ……やっぱり。

「1週間以内に契約確定だね。彩ちゃん駄目だよ、付き合うなら俺だよね?」

 また始まった……。
 なんでこうも毎日堂々と言ってこれるのだろう。
 男ってこういう生き物なのかしら……?

「彩様々だね。じゃ、俺も立候補」

 全員却下!
 ……というよりも、それ以前に絶対皆本気じゃないし。

 入社以来、挨拶のようなものだ。
 おそらく彼らも日に最低1度は言わないと気が済まないのだろう。
 取り敢えず毎度の部分は聞き流す。

「じゃ、感謝の証に奢ってもらおうかな?」

 私はそう言って笑った。
 同僚達も楽しそうに笑う。

 この会社に入って既に8年。
 同期入社の女の子達は結婚して次々と辞めていった。
 所詮行き遅れ。

 大きな溜め息が漏れる。

「彩ちゃん……元気ないね?」
「そんな事ないわよ、パソコンと睨めっこし過ぎて目が疲れちゃっただけ」

 私は慌てて否定した。

 行き先はいつもの店。
 同僚達もこの店がお気に入りだ。
 私同様、店の雰囲気と店員さんが好きなようだ。

 疲れていても店に入ると元気が沸いてくる。
 笑顔で迎えられてほっとして。
 豊富な話題で私達の話を盛り上げてくれて。
 時々新しいメニューの試食をさせてもらったり。
 待つのが当たり前の店なのに、必ずいつもの席をキープしてくれていて。

 色々な意味でお世話になっている店である。

「こんばんは」

 顔馴染みの店員さんに挨拶すると、いつも座る席に案内された。
 テーブルの上には“予約席”のプレートが置かれている。
 店員さんはそれを外しながら椅子を引いて私を座らせてくれた。

 いつものように中生と簡単なおつまみを注文して他愛無い話をする。
 この店でのそんな時間が楽しくて、いつだって時間を忘れてしまう。
 店長さんが声を掛けてくれなければ閉店時間まで居座ってしまいそうで怖い。

「そういえば彩ちゃん、海外研修の話どうした?」
「あぁ……まだ保留。今忙しい時期だし……ってもう締め切りよね、ちゃんと返事しなきゃね」
「彩ちゃんがいなくなったら俺ら仕事できないよ。寂し過ぎて」
「大袈裟よ」

 2ヵ月ほど前に上司に呼ばれて告げられた海外研修の話。
 締め切りはまだ先だと思っていたけれど……嘘、忙しさで忘れていただけだけれど。
 回答期限は迫っていた。
 黙っていればおそらく強制参加になるとは思うけれど、やはり自分の意思はきちんと伝えるべきだろう。

 行ったところでたかが2週間だ。

「伊集院君だって行くんでしょ?」
「彩ちゃんが行かないなら考えるよ」
「駄目じゃん」

 毎年何人かが参加する海外研修。
 昨年は飲み仲間である榊君が参加していた。
 今年は私と伊集院君。
 同じ部から2名の選出は珍しいが、同期が多い年なので仕方がないのかもしれない。

 私達が話をしていると妙な視線を感じた。
 さり気なく振り返ると、カウンターに……いた。
 あの男が。
 帽子を被って俯いてるけれど間違いなくあいつだ。

 ストーカー……?
 さすがにちょっと恐い。

 私は気付かないフリをして飲んで騒いで2時間後、店を出たところで皆と別れた。
 大体9時か10時には帰路に着くようにしている。
 お肌対策。
 今更かもしれないけれど。

 駅に向かおうとして振り返ると目の前に長身の男が立っていた。

「……何してんのよ?」
「彩さん、海外行くの?」
「は?」

 何言ってんの?

「さっき男達と話してたでしょ?」
「あぁ……海外研修の話? ……っていうか何で聞いてんのよ?」

 この男危険じゃない?

「どうせ今日は飲みに行くんじゃないかなって思って先回りしてた」

 何で分かるの?
 恐い。
 不気味。
 やっぱストーカー……?
 実は望月 海のそっくりさんとかってオチ?

「柴田さんは?」
「そこにいる」

 男の視線の先に黒いフィルムを張った車が止まっていた。
 車種は分からないけれど。

「送るよ」
「ちょっと待ちなさいよ。私は1人で大丈夫だから放して」

 男は私の話など聞きもしない。
 私は手を掴まれ、強制的に車に連れ込まれた。
 警察の人が見ていたら職務質問に来そうなくらいの強引さである。

「どういう事なんでしょうかねぇ?」

 私は運転席と後部座席を区切っているカーテンの隙間からハンドルを握る柴田さんを睨み付けた。

「すみません、躾がなってなくて」
「もう少しちゃんとしたトレーナーに預けてでも調教した方がいいと思いますよ」

 私は厭味たっぷりに言い返す。

「彩さん、肩貸して。眠い」

 男は私の肩に頭を乗せて瞳を閉じた。

「ちょっと……っ?!」
「甘えさせてあげてくれない? 土曜日からずっと仕事で、移動中の仮眠程度しか出来てないのよ」

 柴田さんは苦笑していた。

 結構……というよりも、かなりハードらしい。
 やっぱり人気があるんだなぁ……。

「海?」

 柴田さんの声に男は反応しなかった。
 既に夢の中らしい。
 一瞬で寝れるこの男をある意味尊敬してしまう。

「寝たみたいね。私、貴女と話がしたかったのよ。先日はご挨拶も出来ずにごめんなさいね」

 柴田さんは信号で停車している間に、後部座席との間にあるカーテンを少しだけ開けた。

「なんで私を知ってるんですか?」

 私は彼女の質問の前に尋ねた。

「海が……いつも貴女の話をしているから」

 いつも?

「面識もなかったのに何を話すんですか?」

 柴田さんは苦笑した。

「海……あの店の店長さんと仲良しで、時々お忍びで出掛けてて貴女を見つけたみたい。もう1〜2年くらい前だったかしら?」

 それ、聞いた気がする。
 1〜2年前ってのは知らなかったけれど。

「行く度に貴女がいて、いつも皆と笑ってて本当に楽しそうだって。貴女がいなくても誰も貴女の悪口言わないし貴女の話で美味しい酒が飲めるほど好かれてるんだ、自分もそんな輪の中に入りたいって羨ましそうに話してたわ」

 私は彼女の話を黙って聞いていた。

「貴女の部屋にいるって聞いて正直驚いたけど、あの日から海……凄く真面目に仕事をこなすし、楽しそうだったの。貴女には迷惑かも知れないけど……少しだけ海に付き合ってやってくれないかしら?」

 あの日のあの会話だけで相手が私だと分かった事の方が凄いと思う。
 “大好きな人の部屋にいる” としか言っていなかったと思うけれど……。

「今まで本当に手を焼いてしまう困ったちゃんだったのよね、この子」

 たった1回しか会ってないかったけれど分かる気はする……いや、不思議とよく分かる。

「この子が誰かに興味を持ったり気を許したりするのは初めてなの」

 随分女の扱いには慣れているみたいだけど?

「こんなおばさん相手に何考えてんだか……」
「あら、海は同じ位の年齢だって言ってたけど?」

 本気で言ってたのか……。
 信じられない。
 コイツは視力が悪いに違いない。

 私は苦笑した。

「私は30です。この子よりも8歳も年上。この子にはもっと年相応の相手がいるんじゃないですか? 住んでる世界も違い過ぎるし」

 何だか自分に言い聞かせてるみたいだ。
 住んでる世界が違うし年下だ、深入りするな……と。

「海は貴女に本気よ? 年齢だって関係ないじゃない。芸能界は年齢差なんてあって当然だわ」

 芸能界はそうでしょうとも。
 でも一般社会、庶民はそうもいかないのです。
 世間の目は冷たいのです。
 女が年上の場合は特に。

「あぁ……頭痛い……」

 暫くして、車が私のマンションの前に停まった。

「ありがとうございました。コレは持って帰って下さいね」
「え……?」

 柴田さんが驚いたように私に振り返る。
 それこそ “え?” でしょ。

「失礼します」

 私は車のドアを閉めてマンションのエントランスへと向った。
 ポストを確認してからロックを解除してエレベーターのボタンを押すと、背後から抱きしめられた。

「彩さん……」

 誰なのかは愚問だ。

「柴田さんに持って帰れって言ったのに……」
「俺……やっと仕事から解放されたんだよ? 彩さんに会いたかった」
「金曜日に会ったでしょ?」
「駄目……彩さんパワーが切れちゃって仕事にならない」

 何故ここまで気に入られたのだろう?

 私の中で疑問が膨らんでいく。

 なのに、こんな我が道を行く男が気になり始めているという事実を否定する事は出来なかった。






      
2007年10月03日

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