有名人な彼
第5話






 海外研修出発の日。
 私は朝から忙しなく確認作業をしていた。

「ガスよし、給湯よし、留守電よし、戸締りよし、パスポートよし……っと」

 確認を終え、大きなバッグを持って部屋を出る。
 あの後、男と会う事はなかった。

 深夜ロケがしばらく続くと言っていたし……。

 あの男に詳しく研修の話はしていない。
 適当にはぐらかした。
 昨晩久しぶりに、うちに来てもいいかとメールがきたが断った。
 昨日は準備でそれどころではなかったし……もう会わない方がいいと思ったから。

 どうせ2週間いなくてもあいつは気付かない。
 その程度のはず。
 私達はまだお互いの事を何も知らない。
 だから、もう会わない方がいい。
 今ならお互いに傷は浅くて済む。

 携帯電話も部屋に置いてきた。

 2週間後にはきっと今までと同じ毎日が待っているはず。
 吹っ切れて帰って来られるはず……。
 そうであって欲しい。

 私はそう願いながら日本を飛び立った。





 海外研修は2週間。
 フランス、イタリア、デンマークを回る。
 展示会に行ったり、各メーカーを訪問したり、工場見学したり、実際に組み立てを体験してみたりと、結構中身も充実している。

 でも、想像以上にハード。

 精神的にも疲れる。
 英語圏ではないので何を話しているのかさっぱり分からない。
 質問も通訳を介さないと出来ない事が多く、もどかしいし訊きたい事の半分も訊けない。
 英語が通じたらラクなのだが……現実はこんなのもだ。

 研修の半分を終えた頃にはクタクタになっていた。

 まだ1週間もあるのかと思うと哀しくなる。
 日本語と日本食が妙に恋しくなってきた。

「彩ちゃん」
「あら、伊集院君」

 フロントでキーを受け取っていると伊集院君が声を掛けてきた。

「今晩どう?」

 酒を飲むジェスチャーで微笑む彼を見て私も笑顔を返す。

「行く! 正直凹んでたのぉ」
「同じ、何言ってるのか分かんないしストレス溜まるよね」
「そうそう、パソコン開けば毎日部長からメール来てるしねぇ……」

 私達は同時に大きな溜め息を吐いた。

 泊まっているホテルにはバーがあり、英語も通じると言われていたので私達はその店に向かい、暫くは他愛ない話をしていた。
 研修の感想や見学先で訊けなかった疑問など、伊集院君と話しているうちに疑問がいくつか解決していく。
 伊集院君の疑問もいくつかは解決したようだった。

「2週間ってあっという間だと思ったのが間違いだったわ……」
「本当、言葉が通じないだけで時間が4倍長く感じるね」
「まだ1週間も残ってるのかぁ……」

 グラスを回してカラカラと氷のぶつかる音を聞く。

「彼だって寂しいんじゃない?」

 伊集院君の言葉に私は肩を震わせた。

「別に……そんな事、ない……って言うかいないしっ」

 頭に浮かんだあいつの顔を打ち消すように否定した。
 あいつは彼じゃない。
 絶対に違う。

「喧嘩でもしたの?」

 伊集院君が心配そうに私の顔を覗き込む。

「だっ……だからいないってば……!」
「そんな顔で“いない”なんて言っても誰も信じないよ」

 どんな顔よ?

「でも……もし、本当にいないなら俺と付き合わない?」

 伊集院君はどこにいても伊集院君なんだなぁ……。
 でも、いつもみたいに笑い飛ばせないのはどうして……?
 2人きりだから?

 私はいつになく真面目な顔をした伊集院君を見て、どうしたんだろうと首を傾げる。

「……?」
「だから、俺と付き合わない?」
「付き合わせない」

 私じゃない声が伊集院君の言葉を断った。
 偶然にしてはあまりにもタイミングが良すぎる。
 声の方向に振り返った私達はその人物を見て固まった。

「俺のだから口説かないでくれる?」

 男が立っていた。
 禁断症状でも出てきたのかと思って内心焦った。

「なっ……何してんのよ?」
「CM撮影」
「柴田さんは?」
「いるよ、仕事だって言ったでしょ?」

 男の顔はドラマの時と同じくらい無表情。

「望月……海?」

 伊集院君が信じられないというような顔で男を見ていた。

「伊集院君……あの、これは誤解……っ!」
「何が誤解? 黙ってこんなとこに来て俺が心配しなかったとでも思ってるの? なんで何も言わなかったのさ? ちゃんと答えてよね、彩さん」

 呆然とする伊集院君を放置し、男は私の腕を掴んでバーを出た。

「ちょっ……何でここにいるの?!」

 変装も何もしてないし……!
 バレバレじゃないっ!

 どうやら男もこのホテルに滞在しているらしい。
 ホテルの一室に連れ込まれた私は腕を掴まれたまま壁に押さえつけられた。
 男の目があまりにも真剣で、テレビのように静かな口調で……恐かった。

「なんで黙ってたのさ?」

 男は怒りを含んだような目で私を見下ろす。

「仕事だもの……」

 私は俯いたまま答える。
 決して嘘ではない。

「研修は日程だって決まってたでしょ? なんで教えてくれなかったのさ?」
「なんで教えなきゃならないのよ? これは仕事なの、あんたこそ何やってんのよ?」
「俺も仕事だよ」
「海外ロケなんて聞いてない」

 いや、予定になかったはず……。

「急遽そうしたから」

 どういう意味よ?

「彩さんズルイよ、俺の予定は把握してるくせに彩さんは教えてくれない。なんでさ?」

 そんなの……決まってるじゃない。
 大体、勝手に予定を話したのはあんたで、私が訊いたわけではない。

 コイツは何も分かっていない。
 せっかく覚悟して研修に来たのに……なんで来ちゃうのよ?
 これじゃ……。

 私は男の手を乱暴に振り払った。

「彼氏面して仕事の邪魔をしないで……!」
「彩さん……?!」

 私は男の顔を見る事なく部屋を飛び出し、エレベーターに乗って自分の部屋に帰った。

「何で、ここにいるのよ……? 会いたくなかったのに……」

 嘘……会いたかった。
 会いたかったけれど、会ってはいけない男……。
 諦めようとしたのに。

 2週間の研修で自分の中からあの男の存在を消したかった。
 無駄な事なのは分かってたはずなのに……。

 扉に寄り掛かりながらズルズルと床に座り込んだ。
 俯く私の眼鏡の内側に水滴が溜まっていく。

「もう……嫌っ」

 私は暫くその場から立ち上がる事が出来なかった。





 翌朝、伊集院君と顔を合わせるのが嫌だった。
 とはいえ、同じホテルに宿泊していて食事する場所も決まっているので避けられはしないが。

「おはよう彩ちゃん」
「お……はよ」

 マトモに顔を見られない。

「昨日は驚いたよ。まさか彩ちゃんの彼が望月 海だとはね……」
「ち……違うのっ、彼なんかじゃないの! 本当にっ」

 伊集院君が驚いたような顔で私を見る。

「そりゃ、公には出来ないだろうけど……そこまで否定されると傷付くんじゃない?」

 私は拳を握り締めた。

「それとも年の差とか特殊な職業とか気にしてんの? そんなの関係ないと思うけどね」

 伊集院君の言葉に私は俯いた。
 図星を突かれて何も言い返せない。

 どうして皆そう言うのだろう?
 どうして私の決心を鈍らせるのだろう?
 頑張っている自分が馬鹿みたいだ。

「同じ人間でしょ、変な事気にして大切なもの失ったら辛いよ? 素直になったら?」

 顔を上げると目の前にはいつもの伊集院君がいた。

「1回、ちゃんと向き合ってごらん。それでも駄目だったら俺がいるからさ」

 私の頭の上に乗せられた大きな手はとても優しかった。
 いつものリップサービスだと分かっていても、その言葉が有難かった。

 彼の言葉と優しい手で少しだけ立ち直った自分がいた。





 結局、研修中あいつに会ったのはあの日だけ。
 翌日、私達がデンマークに移動した事もあったのだが。

 日本に帰国した私は真っ直ぐマンションに帰った。
 恋しい恋しい我が家である。

 鍵を開けて部屋に入ると出て行った時とは少しだけ違う気がした。
 あの男が来たのかもしれない。

 鞄を開けてお土産や洗濯物を引っ張り出す。

「先ずは洗濯機を稼動させるか……」

 私は洗濯物を抱えて洗面所に向かい、洗剤や柔軟剤を入れてボタンを押す。

 その後、キッチンで珈琲メーカーのスイッチを入れて、部屋中の掃除をした。
 洗濯物もまだ昼だからとベランダに干した。
 身体を動かしていると気がラクだった。

 一通り掃除を終えた私はシャワーを浴びて、リビングで珈琲を淹れてテレビを点けた。
 日本語が流れている。
 当然の事なのに凄く嬉しい。

 ソファに横になっていると睡魔に襲われ、私はあっという間に眠りに就いた。





 目を覚ますとテレビの声が聞こえていた。

 点けっ放しで寝ちゃったんだ……。

 1時間くらい寝ていたようだ。
 買い物にも出掛けないと冷蔵庫の中には何もない。
 しかし、その気になれないのは長旅の疲れからだろう。

 デリバリーでも頼めばいいか……。

「もう一眠りしよ……」

 私は1人呟いてベッドに向かった。
 柔軟剤の馨りが心地いい。

 だけど、微かにあの男を感じる。

 同じ匂いがして当然なのだ。
 あの男はうちでシャワーを浴びたし、服も私が洗濯したのだから。
 2回しか会っていないのに、あいつの服は何故か我が家に置いてある。
 始めて会った日、男は大きなボストンバッグを持っていて、その中には着替えも充分なほど入っていたのだ。
 風呂上りにそのまま放置された服は私が洗濯をしてクローゼットの中に片付けた。

 捨てる勇気はなかった。
 着信拒否する勇気がなかったのと同じだ。

 自分の匂いなのに……我が家の匂いなのに、あいつを思い出して泣きそうになった。

 私は布団に包まり再度眠りに就いた。
 思った以上に疲れていたらしい。





 再び目を覚ましたのは夜。
 真っ暗な部屋。
 リビングから声が聞こえる。

 あぁ……テレビ点けっ放しだったかも。

 寝室の扉を開けると廊下の電気が点いていた。
 点けた覚えはない。

「あ、起きた? 洗濯物取り込んだわよ」

 私以外、誰もいないはずなのに聞き覚えのある声がして。
 見覚えのある顔がキッチンから出てきた。

 あの男のマネージャー、柴田さんだ。

「……何、してんですか?」

 ここ、私の部屋なんですけど?

「貴女に会いたくて来ちゃった」

 さすがあの男のマネージャー……。

 どうやら彼女1人らしい。
 残念なようなほっとしたような……複雑な気分。

「日本食が恋しかったんじゃない?」
「えぇ……まぁ」

 彼女が私と話したいなんて、あの男の事以外ない。
 日本食オンパレードの夕食を突きながら柴田さんはようやく口を開いた。

「彩さん……海の事なんだけど……」

 ほらね……。

「何ですか?」
「あの子……貴女が研修に出掛けた事知らなくて、貴女が帰って来ないってすっごく心配してたの。だから、私が会社に電話をして行き先や日程を訊き出したの。本当に仕事にならないくらい動揺してたのよ?」

 あの男に甘過ぎるんじゃない?
 それ以前に、なんで会社知ってんのよ?

「そしたら……撮影をイタリアでやりたいって急に言い出して」
「あ、CMの?」

 そんな事言ってたな……。

「で、行ったわけなんだけど……」

 けど?
 っていうか普通行く?
 そんな我が儘が罷
(まか)り通るの?

「その後からえらく落ち込んじゃって使い物にならないのよね」

 私のせい……?
 いや、それは自惚れというやつだ。
 ありえない。

「元々クールな役ばっかりだからドラマは困らないんだけど、他の仕事が、ねぇ……」
「……何が仰りたいんですか?」

 苛々する。

「貴女……年齢とかあの子の仕事とかすっごく気にしてない? そのせいであの子を遠ざけてない?」
「……だったら何ですか?」
「あの子も仕事が終われば普通の男の子だって分かってる?」

 そりゃ……そうでしょうとも。

「あの子を信じてあげる事は出来ない?」

 信じるって……何?

「貴女だってあの子の事嫌ってないでしょ? 寧ろ好きなんじゃない?」
「なっ……」
「あの子は貴女の周りにいるその他大勢の男達と同じなの。普通の男だし普通の人間なの。変な線引きをしてあの子を拒絶しないであげて欲しいの」

 何でこんな事言われなきゃならないの……?

「貴女に何が分かるんですか? 私の事何も知らないくせに……!」
「分かるわよ、少しなら」

 柴田さんは苦笑した。

「私の夫も芸能人だから」

 ……はい?

「多分貴女と同じ事考えてたわ。ま、相手が15も年上だから年齢は気にしなかったけど……でも、やっぱり住んでる世界が違い過ぎるって思ってた。だから何度も別れようって思ったし、身を引こうって思った……確かに相当な覚悟は必要かもしれないけど、今は後悔なんてしてないわ」

 柴田さんの旦那さんが芸能人?

「柴田さんの旦那さんって……?」

 誰……?

「猪俣 達郎
(いのまた たつお)

 それって……超有名なハリウッド俳優じゃない?
 でも、あの人は独身じゃ……?

 私は柴田さんの顔を疑うように見た。

「バレてないだけよ」

 彼女はにっこりと微笑む。

「仕事とか……何も言われないんですか?」
「お互い忙しいからねぇ……特に私はあの坊やに振り回されてるし……でも、だからこそ久しぶりに会うといつも新鮮な気持ちでいられるのかもね」

 私は彼女の話を黙って聞いていた。

「ドラマで他の女優と絡んでるの見て嫉妬したりして心狭いなぁなんて思ったりしたし、あれは仕事で浮気じゃないんだ、って思ってもなかなか納得出来なかったけどね」

 この人もそんな風に感じてたんだ……。

「写真誌に撮られたらそれを疑って喧嘩ばっかり。嘘なのか本当なのかも分からなかった」

 柴田さんは昔を思い出すように遠い目をしながら苦笑した。

「今だって100%信用できてるわけじゃないんだけどね」

 柴田さんも不安なんだ……。
 私だけではないのだ……。

「それでも、もう離れるなんて考えられないの。そのくらい大きな存在なのよね、悔しいけど」

 同じかもしれない。
 私の中でもあの男の存在が大きくなってしまっている。
 もう駄目なのかもしれない。

 彼女の言葉が私の作っていた頑固な壁を叩き割り始めた。

「あの子の居場所を作ってあげて欲しいの。あの子は貴女が傍にいてくれればそれ以外を望んだりしないわ。前にも言ったと思うけど、あの子が誰かに興味を持つのは初めてなの。あんなに甘えたり笑ったりした事なかったの。貴女だからだと思ってる」

 貴女だから……。
 そう言われて私の目から涙が零れ落ちた。

「同じ立場の先輩としていくらでも相談に乗るから……あの子をお願いできない?」

 私は黙って頷いた。
 恐いけれど……きちんと向き合ってみようと思ったから。

 その日食べた久しぶりの日本食は涙の味がした。






      
2007年10月05日

背景画像 : Material-M 様
MENUボタン : ウタノツバサ 様
バナー : a day in the life 様

inserted by FC2 system