有名人な彼
その後の2人
第2話






 出会ってから既に1年以上が経った。
 6月の下旬、柴田さんが私を連れて来たのは海の住んでいるマンション。

 このマンションは10階建て。
 その10階、つまりは最上階に海の部屋はある。

 本当に何とかと煙は高いところが好きらしい。

 L字になったマンションで、10階フロアには部屋は7戸。
 海は並びの3戸を購入しているようだ。

 都心だし、決して安くないと思うのだが……。
 そう思うと、やはり海の金銭感覚がおかしいのではないかと不安になる。

「柴田さんこちらは?」

 中年の男性警備員がエレベーターを降りた瞬間に声を掛けてきた。
 どのフロアにも警備員さんがいるらしい。

 無駄に人件費が掛かっているような気がするのは私だけなのだろうか?
 不審者が来る確率は頗る低いだろうし、面識のない人が出入りする可能性も低そうだ。

 何もする事のない仕事ほど辛いものはない。

 学生時代に短期で、大手デパートのエレベーター横で立つだけというアルバイトをした事があるが、ただ立ってお客の手元だけを見ておくアルバイトはしんどかった。
 時給は良かったが再びやろうとは思えなかった。

 この警備員さんの仕事もあのアルバイトに匹敵するくらい辛いはずだ。
 人目もあるし給料が発生している以上、本を読んだり音楽を聴いたりというのは難しい。
 本心からご苦労様と言ってあげたい。

「海の身内です」

 柴田さんが警備員さんに笑顔で答える。

「あぁ、そうですか」

 え……信じたの?
 そんなの信じちゃったわけ?
 本当に警備は大丈夫なの?
 警備はしっかりしてるって言ってなかった?
 どこがしっかりしてんの?!

 給料分きちんと働きなさいよ。
 前言撤回、ご苦労様なんて絶対に言ってやらないんだから。


「彩さん、こっちよ」

 柴田さんに呼ばれて私は慌てて彼女の後を追う。
 突き当たりの角部屋の鍵を開けて部屋に入ると、私の部屋とは比べものにならないほどの明るさと広さ。

「こっちとそっちが洋間で、ここがトイレ、そっちが浴室。で、LDKと和室」

 柴田さんは簡単に指差しのみの説明をした。

 それくらい、見れば分かるんですけど……。

 彼女がこの部屋に連れてきた理由を私はようやく理解した。

 確かにそんな話をした記憶はあるし、丁度1年だ。
 決して忘れていたわけではない。

 でも、まさか強制的に連れて来られるとは思わなかった。

 一通り部屋を見てリビングにやって来た。
 そこにある壁際のクローゼットが妙に気になる。

 ……だって、変だし。

「柴田さん、コレは作り付けなんですか?」

 違和感があり過ぎるのだ。
 真っ白な壁に中途半端な大きさの白いクローゼット。

 壁一面というならば違和感もないのだろうが、この中途半端さは何なのだろう?
 私ならば絶対にこんな図面は書かないと言い切れる。

 高さは天井までなので構わないが、幅は……2000〜2500位。

 何故壁一面にしなかったのかしら?
 確か、海は新築を買ったはず。
 という事は……元々?
 センスないなぁ……。

「これは週刊誌対策よ」

 柴田さんはクローゼットを指差しながら苦笑した。

 意味不明。
 部屋の中に週刊誌対策が出来るものがあるのかどうかさえ疑問である。
 目の前にあるのは外からは絶対に見えないクローゼットだ。
 自分の目で確認しようとクローゼットに手を伸ばすと、触れる前に内側から扉が開いた。

「うわっ! 彩さん、もう来てたの?!」

 海が姿を現した。

「……え?」

 状況が理解できずに私はその場で固まった。

 クローゼットに隠れてた……?

「玄関は別だけど部屋の中は海が我が儘言って繋げちゃったのよ」

 柴田さんは溜め息を吐いた。
 海の背中越しに扉と海の部屋と思われる景色が見える。

「どこ●もドアみたいでしょ?」

 海は子供みたいに微笑んだ。

「柴田さん、珈琲淹れてぇ。喉渇いちゃった」
「はいはい、まったく……我が儘なんだから」

 柴田さんはクローゼットの扉の向こうに消えていく。
 案内されたこの部屋には家具が全くないので当然といえば当然である。

 海は柴田さんの足音が遠退くのを確認してから口を開いた。

「彩さん、去年の6月22日の事覚えてる?」

 忘れてなかったのね。
 まぁ、忘れる事はないだろう。
 特別な日なのだから。

「あの日から今日で1年だよ」

 海は私の手に部屋の鍵を乗せた。

「約束」

 そして優しく私を抱き寄せて、海は耳元で囁く。

「愛してるよ、彩さん」

 空っぽの真新しい部屋の中で私達は唇を重ねた。





 海と柴田さんの行動は驚くほど早かった。
 私は海から鍵を受け取った1週間後に引越しをした。

 多分、私が断らないと分かっていたのだろう。
 そして、柴田さんが業者さんの手配を済ませて、下見に立ち会ったのだろう。
 そうでなければ、こんなに急な引越しが出来るはずがない。

 つくづく海のためなら非常識な事を平気でやってしまう人なのだと思った。

 まぁ、常識なんてものがあの2人にあるのかさえ疑問ななのだが。
 柴田さんが立会い、業者の人が作業してくれたお蔭
(?)で、私は会社を休む事もなく週末に引越しをする事が出来た。

 お任せパックというものがあるのだから便利なものだ。
 女2人で細かい指示を飛ばしながら簡単な作業をするだけ。

 海のマネージメントは、その間事務所の人が代わってくれているけれど、ご機嫌斜めで手を焼いているだろう事は容易に想像できる。
 柴田さんにしか甘えないというのだからどうしようもない。

 柴田さんに子供がいないのはもしかしたら海のせいなのでは……? などと考えてしまうのは私だけなのだろうか……?

「「お疲れ様」」

 荷物を片付け終わると、私は柴田さんと缶ビールで乾杯した。

「海がいない状態でこうやってゆっくりするのは2度目よね?」

 確かに……。

「海をお願いね」
「こちらこそ……お世話になります」

 柴田さんはいつになく真剣な顔で私を見ていた。
 私の心を覗かれてるようで居心地が悪い。

「貴女は貴女のままでいいの、今までの生活を変える必要もないわ。ここに住んでくれるだけで海は満足なの。会いたい時に貴女に会える、あの子はそれが嬉しいのよ」

 子供みたい……。

 私は苦笑した。

 暫くしてリビングの壁際のクローゼットが開いた。

「彩さん!」

 人懐っこい笑顔で海がやって来て私を抱きしめる。
 これで人見知りだというのだから信じられない。

「コラ、人前で何してんのよ……!」
「柴田さんしかいないから大丈夫」
「柴田さんがいるんだから離れなさい」

 私は溜め息を吐いた。

「邪魔者は消えるわね」

 柴田さんは笑顔で部屋を出て行った。

「彩さん……会いたかった」
「大袈裟よ、1週間しか経ってないと思うけど?」
「これからは帰って来れば彩さんに会えるんだね、幸せだぁ……」

 海は私の髪に顔を埋めながら囁いた。

 私も嬉しい……けれど、そんな事は口が裂けても言わない。

「彩さん、引っ越し祝いがあるんだ。貰ってくれる?」

 海は身体を離し。ポケットから小さな箱を取り出した。

「好きな指に嵌めて?」

 心なしか海の顔が紅潮している。
 掌に置かれた箱を私は黙って見つめた。

 これって、もしかして……まさか、ね?

「お……俺、風呂行って来るね……!」

 海は逃げるように自分の部屋に帰って行った。

 1人残されたリビングで、私はゆっくりと包みを開けた。
 箱の中ではダイヤの指輪が輝いている。

 私は暫くの間、箱の中で輝く指輪を黙って見つめていた。
 その内側には Kai to Aya と刻まれている。

「こういうもの渡して逃げるってどういう事よ……?」

 思わず苦笑が漏れる。

 これって……やっぱり、そういう意味……よね?

 ソファに腰を下ろし“ある指”以外の指に嵌めてみたが、どの指にも合わない。

 きっと……澄香だ。
 あの子が海にサイズを教えたに違いない。

 私はその指輪を左手の薬指にそっと嵌めてみる。
 やはり……ぴったりだった。

 途端に涙が溢れる。

「好きな指って……ここにしか合わないじゃない……」

 あの男は器用なのか不器用なのか分からない。

「彩さん……泣いてるの?」

 私が顔を上げると風呂上りの海が立っていた。

「海のせいよ……馬鹿」
「分かってるけど……泣かせついでにもう1ついい?」

 海は私の隣に腰を下ろすとジーンズの後ろのポケットから封筒を取り出した。
 それは役所の名前が印字された茶封筒。

「俺と彩さんが離れないって契約書。俺の方は記入済みだから彩さんが記入したら出しに行こう?」

 離れないって契約書、って……?!

 私は勢いよく海を見上げた。

「すぐじゃなくていいからさ。彩さんがいいと思った時に書いてよ」

 優しい眼をした海は封筒を私に差し出す。
 こんな展開、予測できるわけがない。

 私にはまだ、自信もなければ何の覚悟もない。
 それなのに、こんな大事なものを受け取ってしまっていいのだろうか?

「ついでなんだ……これ?」
「えっ、あ……いや、そうじゃないけど……分かってるくせに意地悪言わないでよ……」

 茶化すように言葉を返すと、海は情けない顔をした。

 だって……どうしたら良いのか私にも分らないんだもの、仕方がないじゃない。

「まだ……嫌」
「うん、待つよ」
「いつになるか分からないわよ?」
「いいよ」
「一生書かないかも……」
「ここにいてくれるならそれでも構わないよ。俺は一生彩さんしか見えないから」

 その封筒を受け取ると、海は私を抱き寄せた。

「1年……待って」
「彩さんって1年好きだよね」
「じゃ、10年……」

 海が小さく笑った。

「彩さんに預けておくから、彩さんが書いたら俺に返して? 俺は急かすつもりはないからさ」

 こういう時だけ大人の男になるから負けちゃうんだわ……。
 なんでこんなに優しいのよ?
 なんで私の言う事が分ってるのよ?
 こんな男だから……こんな海だから、私の中で消し去れないほどに大きな存在になっちゃうのよ。

「仕事……辞めないわよ?」
「俺はそんな事望まないよ」
「飲みに行くのだってやめないから」
「うっ……彩さんが行きたいなら……我慢する」
「私……嫉妬深いのよ?」
「俺もだよ」
「仕事って分かってても怒るかもよ?」
「俺も」
「……8つもおばさ……」
「彩さん」

 海は私の言葉を遮って微笑んだ。

「愛してるよ」

 私の止まらない涙を指で拭って海は優しい優しいキスをくれた。





「最近ご機嫌だね」

 仕事中、目の前に座る伊集院君が小声で話し掛けてきた。

「……気のせいよ」
「相変わらずうまくいってるんだ?」

 伊集院君は頬杖をつきながら苦笑した。

「……まぁ、何とか」

 それ以外に返す言葉もない。

「伊集院! 仕事しろ、彩ちゃんを口説くな!」

 フロアに戻って来た部長が伊集院君の頭を書類で叩いた。

「やだなぁ部長、コミュニケーションですよ」
「煩い! 仕事しろ、仕事! あ、彩ちゃんちょっとお願いがあるんだけどいいかな?」

 部長が私に微笑む。

 なんだろ……?
 って仕事しかないけれど。

 私は立ち上がり、部長の席に向かった。

「コレ、頼んでもいいかな?」

 差し出されたのは1通の書類。

 またプレゼンか……。

「はい」

 出来ないわけではないので断る事もない。
 プレゼンをやるようになってから給料も上がったし、それなりの仕事をしないと給料泥棒になってしまう。
 それだけは嫌だ。

「会議室、借りられますか?」

 こういう時は余計な仕事をしたくない。
 いい加減な気持ちではいいプレゼンは出来ないから。
 やるなら集中して満足いくものを作り上げたいし、当然取りたい。

 部長もそれは分ってくれているようで、事務の仕事を回してこなくなる。
 おそらく他の部署の子に訊きながら片付けてくれているのだろう。

「第3会議室が空いてるよ」

 部長は笑顔で答える。

 もう押さえてあったとは……。
 私が断らないと分かってる辺り嫌な人だ。
 嫌いではないけど……悔しい。

 私は書類を読みながら会議室に向かった。

 既にテーブルの上には資料が用意されている。
 この準備の周到さには毎度溜め息しか出てこない。

 暫く1人でやっていると扉がノックされて伊集院君が顔を覗かせた。

「お疲れ。スタバの珈琲なんかどう?」

 いつの間にか昼になっていたようだ。

「ありがとう、いくら?」
「差し入れだから遠慮しないでどうぞ」

 差し出された珈琲を受け取りながら私はまたか、と苦笑した。

「ご馳走様」

 伊集院君はいつもそう。
 私がお金を払おうとすると逃げたり断ったり……。
 だからたまに私も奢って返す事にしている。

「またプレゼン?」
「うん、望月建設の社長からのご指名だって」

 書類は私宛に送られてきていた。
 ちなみに、望月建設は大手建設会社。

「望月社長って……あの70過ぎのロマンスグレー?」
「うん、そう」
「取らなきゃね」
「プレッシャー掛けないでよ」

 望月建設はプレゼンを担当したのが始まりで、それ以降必ず私を指名してくるようになった会社の1つ。
 初めてで緊張していた私をリラックスさせてくれて、更には励まして……アドバイスまでくれたのが望月建設の優しくてダンディな社長さんだったのだ。
 それ以来、うちの会社に来た時には用がなくても必ず声を掛けに来て下さる。
 話をしているだけでリラックス出来てしまうから不思議。
 顔を見るだけで元気になれてやる気になれるのは、あの社長さんただ1人だと断言できる。

「彩ちゃんは皆に好かれてるからね」
「そんな事ないわよ」

 入社当時から関わっている会社なので、確かに好みやイメージは簡単に把握できるけれど、これはビジネス。
 好き嫌いで採用するような簡単な……甘いものではない。
 いいプレゼンが出来なければ当然落とされる。
 気に入ってもらっているからこそ下手なプレゼンはできない。

「彩ちゃん、また缶詰だって?」

 飲み仲間の矢島君と榊君と遠山君が雪崩れ込んできた。

「情報早いな」

 伊集院君が苦笑する。

「お前、また抜け駆けか?」
「彩ちゃん差し入れ」
「一緒に食おう!」

 会議室の隅にあった折り畳みテーブルを広げて遠山君が手招く。

 賑やかな昼食が始まった。
 こういうのも悪くない。

 私は4人と情報交換をしながら視野を広げていった。






      
2007年12月18日

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