有名人な彼
その後の2人
第4話






「五十嵐さん」

 私は背中を叩かれて目を覚ました。
 背中を叩いたのは他の部署の若い女の子だ。
 彼女の顔を見て社内で居眠りしていた事に気付いた。

「大丈夫ですか? 部長さんが探してましたよ」

 更衣室の壁時計を見て私は固まった。

「うっそぉ……?!」

 プレゼンは朝10時から始まって終わったのがお昼前。
 そして、今の時間は……午後3時。

「ごめん、起こしてくれてありがと!」

 私は慌てて更衣室を飛び出した。
 廊下を走る私に色々な所から部長が探していたという言葉が飛んでくる。

「彩ちゃん……よかった、どこに行ってたんだ? 探したよ」

 部署に足を踏み入れると、部長が近付いてきた。
 心配そうな顔つきで。

 ごめんなさい部長……。

「すみません、更衣室で休憩してる間に意識がなくなってしまいました……」

 私は情けない顔をしていたのかもしれない。
 部長が豪快に笑い出した。

「そうかそうか、そりゃ疲れるよなぁ。ご苦労様」

 怒られると思っていた私は拍子抜け。

「このところ無理してたもんなぁ」

 部長は私の肩をポンポンと叩いて席に戻っていった。
 伊集院君は声を殺して笑っている。

 私は恥ずかしさで真っ赤だったに違いない。

「週末はゆっくりしなよ」

 自分の席の椅子を引くと、伊集院君が笑いに堪え、顔を引き攣らせながら声を掛けてきた。

「そうね、じゃあゆっくり休むためにこの仕事お願い」

 机に積まれた伊集院君の書類を私はそのまま彼の机に返してやった。

「彩ちゃんそりゃないよ、手伝ってよ」
「その前に先ずごめんなさいでしょ?」
「何で? 俺何かした?」
「笑ったじゃない」
「……ごめん」
「よし、手伝って進ぜよう」
「神様・仏様・彩マリア様! やっぱり好きだ、俺の天使
(えんじぇる)、俺と付き合わない? 俺にしときなって♪、超お買い得だから♪」
「伊集院! でかい声で彩ちゃんを口説くな!」

 私達のやり取りを見て周囲が笑い出す。

 この会社ってやっぱり変なのかも……。
 今更だけど……。

 その後は当然ながら真剣に仕事をこなし、上司や同僚に言われるまま珍しく定時退社した私は、7時前にマンションに辿り着いた。

「こんばんは彩さん、今日は早いですね」

 エレベーターを降りると警備員さんに声を掛けられた。
 ここに引っ越してくる際に柴田さんが、いつ苗字が変わってもいいようにと下の名前で呼ばせる事にしたと言っていた。
 どうやら私の苗字を“望月”だと思っているようだ。

 まぁ、まだまだその気はないけれど。
 それ以前に変わるのどうかも怪しい。
 一々面倒なので説明はしないけれど。

「こんばんは。たまには定時退社もいいかなって」
「お疲れ様です」

 私は苦笑交じりに挨拶をして部屋へと向かった。

 玄関を開けてパンプスを脱ぎ捨てる。
 いつものように揃える気力もない。
 部屋の電気を点けてリビングのソファに倒れるように身体を沈めた。

 今日が金曜日で助かった……。

 私は重い瞼を我慢する事なく眠りに就いた。





 目を覚ますと窓の外は明るかった。

「うっそ……爆睡?」

 私は驚きながら飛び起きた。

「おはよう彩さん」

 いつの間にか私はベッドにいて、隣には運んでくれたと思われる海が横になっている。

 気付かないなんて……どれだけ疲れていたのだろう……?

「随分疲れてたみたいだね」

 海は苦笑した。

「ここんとこ仕事で気を張り詰めてたからその反動かなぁ……」

 こんなに爆睡したのも久しぶりだと思う。
 最近はお酒を飲んでもなかなか眠れなかった。

「起こしてくれればよかったのに」
「疲れてる彩さんを起こすなんて出来ないでしょ」

 海の言葉に私は微笑んだ。
 いつも私が海に言ってる言葉そのものだったからだ。

「何さ?」
「私と同じ事言ってる、と思って」

 海は本当だと呟いて微笑んだ。

「そっか……彩さんもこんな気持ちだったんだね」

 そう呟く海の顔はやけに嬉しそうだった。
 一瞬不思議に思ったが、すぐに自分の言葉を思い出して……。
 私が海を起こさない理由がバレてしまったのだと気付いた。

 顔が熱を帯びていく。
 少し……いや、かなり恥ずかしい。

「何笑ってんのよ?」

 多分今の私の顔は真っ赤だろう。
 顔が火を噴きそうなくらい熱い。

「彩さん、愛してるよ」

 海は私の腕を掴んで組み敷いた。

 もしかして……まさか?

「昨日は我慢するの大変だったんだよ? 今日がオフだったから我慢できたんだ」

 海はそう言って私の首筋に唇を這わす。

「ちょっ……海っ?!」
「駄ぁ目、放さないよ」

 私は朝一から海に襲われた……。





 ぐったりした夕方。
 私達はまだベッドの上にいた。

「ねぇ彩さん、何で指輪してくれないのさ?」

 海が私の指に触れながら尋ねる。
 私の指に飾りは何1つとして付いていない。
 マニキュアも塗らないし、爪は指からはみ出さない程度で切り揃えている。
 実にシンプルな手なのだ。

 爪が短いのは毎日パソコンを触るから。
 爪が長いと、キーボードを叩いている時にカチャカチャと音がして気が散るのだ。
 マニキュアは徐々に剥げてくるのがみっともない気がして好きになれない。

 爪のお手入れはするけれど、自宅で出来る範囲。
 決してお金を掛けたりはしない。

 だけど、海が言いたいのはそんな事ではない。
 分かっている。

「仕事に集中できないのよ、指ばっかり気になっちゃって」

 引っ越してきた際に貰った指輪の事だ。

 プラチナ台にダイヤが数個付いた、派手ではないけれど地味でもないちょっとお洒落な指輪。
 決して安物ではないだろう。
 ジュエリーに詳しくもなければ、それほど興味がない私には何カラットなのかとか推定いくらなのかも分からないけれど。
 きっと澄香ならばすぐに数字を当て嵌めてくれるだろうが、見せる気はない。

 何よりも頂いたものの金額を探るような真似はしたくない。
 海の気持ちだけで充分なのだ、私は。

「じゃあ、飾りがなかったらしてくれる?」

 海の左手が私の左手を優しく撫でる。

 深い意味などないと思うけれど。
 ……まさか、ね?

「多分しない」

 自分の自惚れた考えを打ち消すようにやや大きめな声で答えて私は身体を起こした。

 節々が痛い。
 まるで錆びたロボットのようにぎこちなくて滑稽な動作。
 シャキシャキと動く事が出来ない。

 あぁ……お腹空いた。
 昨日の朝以降、何も食べていないのだから当然だろう。

「お腹空かない? シャワー浴びたら何か作るわね」

 私はベッドから出て浴室へと向かう。
 昨日着ていたスーツはベッドの下で皺になっていた。

 クリーニングに出さなきゃ……。

 シャワーを浴びて出てくると珈琲の匂いがした。

「珈琲淹れたよ。ご飯お願いね、彩さん」

 海は私に軽く口付けてキッチンを出て行く。

 さて、何を作ろうか……。

 私は冷蔵庫を覗きながらちょっと早い夕飯のメニューを考える。

 キッチンで食材を刻み始めると携帯が鳴った。
 私の携帯だ。

 簡単に手を洗ってカウンターの上にある携帯電話に手を伸ばす。
 掛けてきたのは伊集院君のようだ。

「もしもし?」
『あ、彩ちゃん?』

 休みの日に何の用かしら?

「どうしたの?」
『昨日疲れてたから大丈夫かなぁって思って』
「あぁ、ありがとう。大丈夫よ、帰ってから朝まで記憶ないくらいよく寝たわ」

 電話の向こうで伊集院君の笑う声が聞こえる。

『そっか、ならいいんだ』
「わざわざそれだけで電話してきたの?」

 変なの……。

 私が首を傾げると後ろから抱きしめられた。
 勿論海にである。
 首筋にわざとらしくチュッと音のするキスまで。

「誰から?」

 私は心臓が飛び出そうなくらい驚いた。

 もしかすると、海は電話の相手が誰なのか分かったのかもしれない。
 だから、わざと音のするキスを……。

「あ、じゃあね。また月曜……」

 海は伊集院君を良く思っていないので、さっさと切った方がいいだろう。
 そう思って電話を切ろうとした瞬間に携帯を奪われた。
 当然、海に。

「もしもし、人の女に手を出さないでって言った筈だけど?」

 やはり相手が誰なのか分かっていたようだ。

「海……!」
「月曜日も疲れてたらごめんねぇ」

 そう吐き捨てると海は一方的に電話を切ってしまった。

「海〜?」

 私は睨むように海を見上げる。

「だって……イタリア野郎嫌いなんだもん。大体休みの日に何の電話なのさ? 彩さんを誘おうとか思ってたんじゃないの?」

 いや……そんな言葉は全く出てこなかったわよ。
 万が一出てきても断るに決まってるじゃない。
 あんたの世話があるってのに。
 大体、イタリア野郎って何?

「昨日の仕事の話よ」
「今までそんな電話掛かってきた事あった?」

 ……ない、けど。

「昨日はちょっと会社でもやらかしちゃったしね……」

 私は昨日の失態を思い出して苦笑を漏らした。
 子供の頃から授業中に怒られた事のなかった私の人生初の大失態である。

「何さ?」
「就業中に寝ちゃって……」

 海が驚いたように目を見開いた直後、大きな声で笑い出した。

「笑わないでよっ、私だって初めてだったんだから……!」

 海の胸に拳をぶつける私の顔は真っ赤だったに違いない。
 自分の恥を晒したのだから真っ赤にもなるだろう。

「そんなに頑張ってたんだ? そりゃ家でも溜め息出るよね」

 私の手を掴んで海が唇を重ねた。

「お疲れ様、彩さん」

 優しい腕が私を包み込む。
 こうして海に抱きしめられると疲れが消えていく気がする。

 ねぇ、海。
 海が私のどんな言葉で励まされたのか分からないけれど……私はこうして海に抱きしめられたり“愛してるよ”って言われていつも癒されてるのよ。
 分かってる……?

 私はそっと海の背中に手を回して疲れた身体に少しだけ元気を貰った。






      
2007年12月20日

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