有名人な彼
その後の2人
第6話






 私がプレゼンした案件が採用されて仕事は大忙し。
 外は灼熱地獄。

 正直身体がキツイ。

 夏バテ?
 それとも、ただ単に年齢的なものなのか?

 8月後半の、暑い暑い週末。
 最近は休みの日のほとんどを家の中で過ごしていた。

 外は溶けてしまいそうな暑さ。
 仕事で疲れきった身体と脳味噌。

 出掛ける気力もない。
 食材の買い物に出掛けるのも日差しが和らぐ夕方以降。

 家の中にいると時間を持て余してしまうけれど、外には出たくない。
 その辺に若さというものが自分からなくなったと感じる。
 エアコンによって快適な空間を作り上げているこの部屋から出たくない。

 洗濯物が早く乾くのは助かるのだが……。

 壁の向こうで物音が聞こえた。
 海が帰って来たようだ。

 私はすぐに来るだろうと思ってアイスコーヒーの準備を始めた。

 しかし、海が来るよりも先に部屋のインターホンが鳴った。

 ……誰だろう?
 宅急便?
 いや、最近は通販も頼んでないしなぁ……。
 っていうか玄関のインターホンだし。

 私はインターホンのカメラに映った人物に顔を顰めた。
 柴田さんだ。

 いつも来る時は海と一緒にクローゼットの中から現れるのに、今日に限って何故玄関から?

 嫌な予感がしたけれど、私は玄関の扉を開けた。
 無視するわけにはいかないからだ。

「突然ごめんなさいね」
「……いえ、どうかしたんですか?」

 聞きたくないと思っているのに、私の口からは考えるよりも先に質問が飛び出していた。

 しかし、後悔はない。
 どうせ聞かなければならない話だからだ。

「ちょっと話があって……」

 柴田さんの顔には疲労感が浮き出ている。
 取り敢えず部屋の中に上がってもらって、私は海に用意したアイスコーヒーを自分の前に、私のグラスに入ったものを柴田さんに差し出した。

「あのね……怒らないで聞いて欲しいんだけど……」

 怒る?
 なんで?

「何をですか?」
「海、怒っちゃって口も利いてくれないのよ……仕事の事なんだけど」

 話し難い事らしい。

「はっきり言っちゃって下さい」

 遠回しに言われても最終的には同じ事。
 だったら言い訳臭い事を長々と聞かされるよりもズバッと言われる方がいい。

「宣伝で海と……今度共演する女優さんを写真誌に撮らせたの」

 “撮られた”ではなくて“撮らせた”?

「この業界ではよくある事なのよ。番組を宣伝するためにわざと写真誌に撮らせるの。海はずっと嫌がってたんだけど、今回は社長直々に言われて断れなかったの。勿論やらせだから2人の間には何もないのよ?」

 柴田さんは私の顔色を窺いながら言葉を続ける。

「彩さんが誤解するからって海もここのところずっと断ってたの……でも今回は、相手のプロダクションも大手でね……社長も断りきれなかったらしいの。多分、放送を開始したらもう1回くらいそんな話が来ると思うの」

 女優さんならば綺麗な人なのだろう。

「そう、ですか」
「彩さん、海を信じてあげてね? 海には貴女しかいないの」

 私には柴田さんの言葉を信じる事が出来なかった。
 信じてあげられるほどの自信が……私にはなかった。

 本当はその人と隠れて付き合ってたのではないか?
 もう私なんか飽きてしまっていたのではないか?

 柴田さんの言葉に簡単な相槌を返しながら私の頭の中は不安でいっぱいになっていた。
 一生懸命説明してくれた柴田さんには悪いけれど、その後の彼女の話は全く私の耳には届いてこなかった。





 暗くなっても海は私の部屋にやって来ない。

 バレてしまったので来たくないのではないか?
 本当は早く出て行ってくれ、と思っているのではないか?

 心の中でもう1人の私が刃物のような鋭い言葉を投げ付けてくる。

 壁の向こうにいるのに……いると分かってるのに会えない。
 自分から向こうに行く勇気もない……。

 私は閉ざされたクローゼットを見つめながら、携帯を取り出して澄香にメールを送った。

『海が女優さんと一緒のところを週刊誌に撮られたんだって。私は何を信じたらいい?』

 返ってくる言葉は決まっている。
 それでも誰かに聞いて欲しかった。
 私1人ではキャパシティーオーバー……。

 澄香からのメールはすぐに返ってきた。

『海君を信じなさい』

 やっぱり……。
 信じる方法を教えてよ。
 どうしたら信じられるの?

 携帯を握る手に生暖かい雫が零れた。

「海……好きよ、好きだけど……」

 私はクローゼットの前に重いソファを移動させて海と通じる扉を閉鎖した。
 重い家具もダンボールを噛ませば結構簡単に移動させる事が出来るのだ。

 今は会いたくない。
 澄香に返信する事も出来ず、私は携帯を持ったまま寝室に向かった。

 海を好きになどならなければ良かった……。
 不安で確認も出来ない。

 きっと、確認できても演技なのではないかと疑ってしまう。
 信じたいけれど……信じられない。

 誰か……助けて……。
 海など……俳優など好きにならなければ良かった……。

 私はタオルケットを頭から被って声を殺して泣いた。
 流しているものが涙なのか汗なのかも分からなくなる程……とにかく泣いた。





 翌朝、目を覚ますと瞼が腫れていた。
 酷い顔だ。

 こんな顔では会社に行けない……。
 恥ずかしいのもあるが、皆に心配を掛けてしまう。
 それ以上にこの精神状態で仕事が出来るとは思えない。

 私は初めて会社を仮病で休んだ。

 昼過ぎに伊集院君から電話があったけれど無視した。
 誰とも話す気にならなかったからだ。
 こんな事をしていても何も解決しないと分かっているけれど、どうしていいのか分からない。

 ベッドから出る気にもならず、私は夕方までずっと丸まっていた。

 昨晩から飲まず食わずだった私のお腹が空腹である事を主張し始める。
 落ち込んでてもお腹だけは空いてしまうようだ。
 生きているのだから当然だろう。

 私は真っ暗な部屋の中を進み、リビングの明かりを点けた。
 予想以上の照明の明るさに一瞬だけ顔を顰める。

 テレビを点ければ海の姿を見てしまうだろうと、リモコンに伸ばしかけた手を胸元に引き戻す。

 空腹なのに食欲はない。
 作る気もない。

 カウンターの上に乗っているカ●リーメイトを見つけ、それを開封して口に運んだ。
 味など分からない。
 分からなくてもいい。
 空腹を訴える胃を黙らせたいだけなのだから。

 しかし、選択を誤ったようだ。

 パサパサしたものは喉が渇くという事を失念していた。
 私はキッチンに向かい、いつも海が使っているグラスでアイスコーヒーを作った。

 海がいつも使うグラスは綺麗な青の琉球ガラス。
 ロケに行ったお土産にペアで買って来てくれたのだ。
 ちなみに私のグラスは赤。
 食器棚で2つ並んだグラスを見ていると気分が滅入ってくる。

 このマンションから出て行ったほうがいいのかもしれない……。

 何となくそう考え始めた時、インターホンが鳴った。
 カメラに映ったのは意外にも伊集院君。

 どうしてここを知ってるの……?

 会社に住所変更の書類は提出したけれど、伊集院君を含めて誰にも教えた覚えはない。
 私は驚きながらインターホンの通話ボタンを押した。

「……はい」
『伊集院だけど……彩ちゃん大丈夫?』
「うん、大丈夫……」
『榊達からお見舞い預かってるんだけどちょっとだけいいかな?』

 嫌だ、とは言えない。
 お見舞いを預かっていると言われて持って帰れなどとは言えない。
 失礼だ。

「10階に警備員さんがいるんだけど、私の苗字は名乗らないで。名前で分かるから」

 私はそれだけ言ってエントランスのロックを解除した。

 取り敢えず昨日と同じ服だし、着替えた方がいいだろうな……。

 私は皺くちゃのスーツを脱ぎ捨てて、トレーナーとジーンズというラフな格好に着替えて伊集院君を待った。
 玄関のインターホンが鳴り、私は確認する事なく鍵を開けた。

「……彩ちゃん?」

 伊集院君は私の顔を見て驚いていた。
 すっぴんだからではないと思う。
 泣き過ぎて腫れた瞼を見て驚いたのだろう。

「何があった? あいつ?」

 伊集院君は玄関の扉に手を掛けて勢いよく開けた。

「彩ちゃん」
「……話したくないの、明日には復活するから心配しないで」
「するに決まってんだろ!」

 警備員さんがやって来てしまうのではないかと不安になった私は、伊集院君を引き込んで玄関の扉を閉めた。

「あいつだろ? あいつの事で泣いてたんだろ?」

 伊集院君は私に紙袋を差し出しながら尋ねてくる。
 しかし、答える気はない。
 答えなくともいずれ分かる事だ。

「……榊君達にお礼言っといて」
「彩ちゃん」
「……ごめん、話したくない」

 私は俯いたまま小さく答えた。

 お願いだからもう帰って……。
 そう言おうとした瞬間、私の身体が引っ張られた。

 ……え?

 寝不足と泣き過ぎによって頭の回転が鈍くなっていたのかもしれない。
 何が起こったのか瞬時には理解できなかった。

 伊集院君に抱きしめられていると分かるまでに数秒を要した。

「い……伊集院君……?!」
「少しだけ胸を貸してあげるよ。話せないなら訊かないから、泣きたいだけ泣けば? 俺が帰った後泣かれると辛いし」
「それは出来ないよ、伊集院君は……海じゃない」

 伊集院君の腕の力がすっと抜ける。

「キツイなぁ……」

 伊集院君が苦笑しながら私の頭を優しく撫でた。
 不思議と落ち着けた。

 共有廊下を歩く足音が近付いてきて、勢いよく玄関の扉が開く。
 私は反射的に伊集院君から身を剥がした。

 警備員さんに聞いたのかもしれない。

「あんたここで何してんのさ?」

 海が伊集院君の胸倉を掴む。

「彩ちゃんを泣かす男にとやかく言われる覚えはないね」

 伊集院君は顔色も変えずに海の手を掴んで捻った。
 海の顔が痛みに歪む。
 それでも伊集院君は海の腕を離さない。

「伊集院君やめて……っ」
「君が一般人なら俺は遠慮なく顔に1発入れるところだ」

 伊集院君は怒りに満ちた顔をしていた。

 心配してくれるのは嬉しいけれど……やり過ぎだと思う。
 とても言える空気ではないけれど。

「明日も彩ちゃんが会社に来なかったら誘拐するから」

 伊集院君はそう言って睨みつけながら海の手を離して去って行った。

 私は身体の力が抜けてその場にヘナヘナと座り込んだ。
 伊集院君が海に手を上げなくてほっとしたからだ。

「彩さん……?!」
「出て行って……」
「彩さん、俺……」
「出て行って!」
「……じゃあクローゼットの前に置いてる物退けてよね。それが条件。うんって言ってくれたら帰る」
「……分かったから、出て行って」

 そう答えるしかなかった。
 でもすぐになんて約束しない。

 私は海が出て行ってすぐに鍵を掛けた。
 チェーンも忘れずに。

 そして私は再び部屋の中に1人だけの空間を作った。






      
2007年12月22日

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