有名人な彼
第6話






 柴田さんがうちに来てから既に2週間以上。

 男からの連絡はない。
 こちらから連絡する気はなかった。
 どちらかといえば連絡が来ない方がいいと思っていた。

 向き合おうと決めたはずなのに、心のどこかでそれを恐れている。
 なのに気が付けば携帯を確認していて。
 そんな自分が理解できなくて苛々した。

 海外研修中に送られてきたメールは2通。

『会いに行ってもいい?』
『彩さん、今どこにいるの?』

 多分2通目はこの部屋から送られたのだろう。
 いくら待っても帰って来ない私にメールをしたのではないか、と思う。

 出発から3日後のメール。

「彩ちゃん」

 仕事を終えて片付けをしていると伊集院君が声を掛けてきた。

「そろそろ行く?」
「行く」

 即答した私の顔を見て伊集院君が苦笑する。

「喧嘩でもしたの?」
「会ってもいないし連絡もないわよ。さすがに愛想尽かされたんじゃない?」

 それならそれでいい。
 拒絶したのは私だもの……。
 会いに来てくれるなんて期待はできない。
 それどころかさっさと次のお相手くらい見つけているかもしれない……。

 そう思うと胸に刃物が刺さったような痛みが奔った。

「ま、今日は皆で楽しんで忘れよ?」
「うん」

 伊集院君は優しい。
 詳しく訊き出そうとはしない。
 聞かれたところで私もどう答えていいのか分からないのだが。

 会社の入口で待ち合わせて全員が揃ったところで駅の方向に歩き出す。
 向かうのはやはりいつもの店。
 あいつがいるかもしれない……そんな小さな期待と、いたらどうしよう……という不安。
 いつものように席に案内され、ビールとおつまみを注文して話し出す。

「彩ちゃん、最近ボーっとしてない?」
「そんな事ないけど……何かミスあった? 何かやっちゃった?」
「ミスとかじゃないよ、ただ気になっただけ」
「最初は時差ぼけかなって思ったけど、研修後くらいからなんか沈んでる気がするんだけど?」

 皆の眼が私に向けられている。
 周囲に気付かれてしまうほど落ち込んでいるとは思っていなかったので正直焦る。

「あぁ……時差ぼけは辛かったなぁ。ね、伊集院君?」

 思わず伊集院君に助けを求めた。

「休み明けの会社は辛かったよね」

 伊集院君は話を合わせるように言葉を返してくれた。

「でも、彩ちゃんが帰ってくると部署が明るくなったよ。いない間最悪だったんだよ? 部長も機嫌悪くて課長に当たるから俺等までとばっちり食うし」
「なんで……?」
「心配だったんじゃないの?」
「部長、彩ちゃんを可愛がってるからねぇ」

 確かに……それは認めよう。

「ま、研修がエロ課長じゃなくて伊集院とだったから部長も多少は安心だったとは思うけど」

 課長とは嫌だなぁ……。
 もし課長とだったら行かなかったかも。

「でも伊集院も部長からしたら敵だからなぁ……」

 確かに。
 部長はいつも伊集院君を威嚇してる気がする……。

「あ、ごめん。ちょっと失礼」

 この話題を引っ張られるのが嫌で私は立ち上がった。

「行ってらっしゃい」

 伊集院君は察してくれたらしく私に笑顔を向ける。
 私は逃げるように店の奥にあるお手洗いに向かった。

「彩ちゃん大丈夫か? 伊集院、お前本当に何も知らないのか?」

 背後から声が聞こえた。

「彩ちゃんも疲れてんじゃないか? 男の俺だってしんどかったから。英語も通じないからストレス溜まるし、部長から毎日メールきてたし」

 伊集院君はあの男の話をしなかった。
 凄く有難かった。

 水道の蛇口を捻って手を洗い、ハンドペーパーで拭いて、その冷えた手を顔に当てた。
 ひんやりとして気持ちいい。
 動揺した心が少しずつ落ち着きを取り戻していく。

「よしっ」

 意味も分からない気合を入れて、私はお手洗いのドアを開けた。
 すると、目の前に背の高い“ヤツ”が立っていた。

「……何?」

 心臓に悪い。
 毎度毎度、突然現れないで欲しい……。

 せっかく平常心を取り戻したのに、この男はトコトン私を振り回す。
 ……何から話していいのかも分からない。

「久しぶり」

 男が俯きがちに一言だけ言葉を発した。

「そうね」

 顔色はあまり良くない。
 若干痩せた気がする。
 仕事が忙し過ぎるのかもしれない。

「あんまり遅いと皆が心配するの、何か話があるなら後で聞くわ」

 男を直視できずに通り過ぎようとした瞬間、腕を掴まれて抱きしめられた。

「なっ……?!」
「彩さん……会いたかった」

 さすがに場所を考えて欲しい。

 フロアからは見えないように配慮された壁があるけれど、いつ誰が来るか分からない。
 この男が店にいる事もだが、女と抱き合ってるところなど見られたら大騒ぎになるに違いない。

 男にとって友人の営むこの店は唯一安らげる場所のように思えた。
 だからこそ余計にマズイ。

 大事な場所を失ったら、この男はきっと壊れてしまう。

「後で話し聞くから。今はやめて、放して。人が来て困るのはあんたよ?」

 私は平静を装って男の背中を軽く叩いた。
 渋々と私を解放した男は軽くキスを落としてフロアに消えた。

 期待なんかしちゃ駄目……。

 私は自分にそう言い聞かせて同僚達の許に戻った。

 伊集院君が何か言いたげな顔をしている。
 あの男に気付いたのかもしれない。

 それでも、“誰か”と違って場を弁えている彼が私に訊いてくる事はなかった。

 飲んで笑って2時間後、私は同僚達と別れて駅に向って歩いていた。
 車のクラクションが聞こえて、何となく音の方向を向くと柴田さんの乗った車が停まっていた。
 気付かないふりをして帰ろうかとも思ったが、柴田さんと目が合ってしまったので仕方なく車に向かう。

「こんばんは。送るから乗って」
「いえ、結構です」
「彩さん」

 柴田さんの申し出を断った瞬間、不機嫌な男の声が聞こえた。

「話、聞いてくれるんでしょ?」

 あぁ……そんな事言ったような言わなかったような……。
 逃げたくて適当な事を言っただけなので覚えてはいない。

「彩さん乗って」

 困惑している私に柴田さんが再度促す。
 断れる雰囲気ではなかった。

 私は仕方なく助手席に乗り込んだ。

「何で後ろに乗らないかなぁ……」

 ぼやく男の言葉を無視して私は柴田さんを見た。
 彼女は微笑むだけで何も語ろうとはしなかった。

 すごく……気まずかった。





 マンションに到着した車から私が降りると当然のように男も降りた。

「明日6時に迎えに来るわね」

 柴田さんはそう言い残して車を発進させた。

 私は男を無視するようにエントランスのロックを解除して中に入る。
 男は慌てて後を追って来た。
 エレベーターに乗り込むと同時に大きな身体が私の身体を優しく包み込む。

「彩さん、ごめん……仕事の邪魔とかするつもりなかったんだ。ただ……あのおっさんが彩さん口説き始めたからつい……」

 あぁ、研修の時の話か……。

「まだ、怒ってる……?」
「怒ってる」

 自分が芸能人であるという自覚がない事に。
 我が儘を言って周囲の人に迷惑を掛けた事に。

「それと、伊集院君がおっさんなら私はおばさんよ。彼は同級生
(タメ)なの」

 男が情けない顔で私を見下ろす。

「ごめん……そんなつもりで言ったんじゃない」

 どんなつもりで言ったのよ?

 エレベーターが部屋のある4階で止まった。

「ほら、離れなさい。歩けないじゃない」

 私は男の胸を押し離して部屋に向かう。

 部屋に入るとローテーブルの上に綺麗にラッピングされた箱が置かれていた。
 勿論私が置いたわけではない。

「お詫びの印」

 男が私を背後から抱きしめ、後頭部に触れた柔らかな男の唇が動く。

「物で釣る気?」
「釣られてくれるの?」

 そうきたか……。

「あんた次第じゃない?」

 私は男に見えないように俯いて微笑んだ。
 もう既に釣られているなんて絶対に教えてやらない。

「可能性はあるの?」

 随分と自信ないのね。

「ゼロではないと思うけど?」

 男の唇が首筋に触れた。

「あっ……ちょっ……!」
「彩さん……大好き」

 大好き……か。

「鬱陶しい……離れて。シャワー行きたい」

 私は男の腕から離れてキッチンに向かい、珈琲メーカーをセットしてスイッチを入れた。

「彩さんって珈琲好きだよね」
「好きよ、1日中飲んでる」
「胃悪くするよ?」
「そこまで軟弱じゃないわ」
「鍛えようがない箇所だと思うけど……」

 確かにね……。

「冷蔵庫にお茶もビールも入ってるから勝手に飲んでなさい」

 私はそう言って浴室に向かった。





 私は決して長風呂ではない。
 長風呂ではないのだが……シャワーを浴びて部屋に戻ると男はソファベッドで寝息を立てていた。

 やっぱり、仕事がハードなのかしら?

 男の綺麗な寝顔を見ながら私は微笑んだ。

「幸せそうな顔して寝るのねぇ……」

 安心しきった顔。
 どこか幼ささえ感じる。

 私は寝室から毛布を持ってきて男に掛けた。
 ピクリともしない。
 かなり疲れてるようだ。

「疲れてるなら真っ直ぐ帰ればいいのに……」

 男の顔に掛かる髪をそっと掻き上げ、その寝顔を眺めながら就寝前の珈琲を堪能した。
 こんな顔を眺めながら珈琲飲むなんて贅沢だわ……。

 “可能性はあるの?”

「好きでもない男と何度も寝るわけないじゃない……馬鹿……」

 私は1時間ほど飽きもせず男の寝顔を眺めてから寝る準備を整え寝室に向かった。





 夜中、急に身体に重いものを乗せられたような感じがして目を覚ました。

「……重っ」
「何で起こしてくれなかったのさ?」

 目の前に男がいた。
 それもかなり至近距離だ。

 それよりも、なんで私に跨ってんのよ?

「気持ち良さそうに寝てたから」

 私は欠伸をしながら答える。

「彩さんといられる貴重な時間なんだよ? 分かってる?」
「分かってない。おやすみ」

 布団に包まって男に背を向けると、男がベッドに潜り込んできた。

「あっちで寝なさい」
「嫌だ。彩さん、パワーちょうだい?」

 それは……させろと同意語じゃ……?

「嫌。眠いの」

 断ったところで無駄なのは承知している。
 男の手は既に私のパジャマの下から進入してきていた。

「いい子に寝なさ……あっ……!」

 結局私は男の腕の中で翻弄され寝不足の朝を迎える事になった。





 早朝4時。

 私が目を覚ますと隣でイケメン俳優が気持ち良さそうに眠っていた。
 昨日まであんなにグズグズめそめそしていたのにすっきりとした気分。

 理由は簡単。
 この男がここにいるから……。

 今更拒絶などできはしない。
 でも、この男への対応を変える事もできない。

 この男はこんな私でもいいのだろうか?
 こんな天邪鬼な私で……。

 暫く男の寝顔を眺めて私は浴室に向かった。
 軽くシャワーを浴びて朝食の準備に取り掛かる。

 柴田さんが迎えに来るのが6時。
 あまり時間がない。

 トーストと珈琲とスクランブルエッグにベーコンにサラダ。
 朝食としては充分だろう。

 ローテーブルの上に乗っかっている大きな箱を持ち上げ、カウンターに移動させる。
 ……が、妙に軽い。
 片手掌に載せて軽々運べてしまうほどの重さだ。

 しかし、今はそんなものに構っている時間はない。
 柴田さんが来てしまうのだ。

 私はリビングのローテーブルの上に皿を置き、寝室で寝ている男を起こしに向かった。

「起きなさい、柴田さん6時に来るんでしょ? 朝ごはん作ったから食べて行きなさいよ」

 男は妙に目覚めが良かった。

「おはよ、彩さん……ってなんでそんなに離れてんのさ?」

 私は寝室の入口横の壁に寄り掛かっていた。

「さっさと準備しなさい」

 そう言い残してリビングに引き返す。

「彩さぁん……お目覚めのキスはぁ?」

 何甘えてんのよ……。

 私はその言葉を無視してローテーブルの前に腰を下ろし、ソファに背中を預けて珈琲を口に運ぶ。

 ボクサーブリーフにシャツを羽織った姿で男はリビングにやって来た。
 鍛えられた身体は腹筋が割れている。

 俳優でモデルの男なのだから脱ぐ事も少なくないし、鍛えなければならないのだろうが……。
 見ろ! とばかりに晒される肌に苛立つものを感じる。

 しかし、体脂肪の少なそうな綺麗な身体に見とれてしまうのも事実。
 苛立ちも忘れてついつい凝視。

「そんなにじっと見ないでよ……」

 男が恥ずかしそうにほんのりと顔を赤らめる。
 だからといって隠さないところが妙にムカつくけれど。

「何言ってんの? 見せ慣れてるでしょ?」

 男は私の隣に腰を下ろし私の肩を抱き寄せた。

「コラ」
「彩さんの匂いだ……」

 どんな匂いよ?

「さっさと食べてシャワー浴びなさい」
「嫌だ。彩さんの匂い洗い流したくない」
「馬鹿言わないの。仕事に行くんだからちゃんとしなさい」

 男は拗ねた顔で私を見ている。

 可愛い……。
 母性本能を擽られる。

「じゃあシャワー浴びたらキスしていい?」

 どういう交換条件よ?

 そうは思うがグズグズされると困る。

「はいはい、どうぞ」

 私は適当に答えて食事を開始した。

 既に5時。
 お迎えの時間が迫っている。
 拗ねられても面倒だし、適当にあしらっておいた方がいい。

 男は携帯でスケジュールを確認しながらパンを齧る。
 行儀が悪いとは思うけれど変に口出しをすると面倒なので今日は無視する事にした。

「彩さん」
「ん?」
「俺……来週から海外ロケ」
「行ってらっしゃい」
「……週末来てもいい?」
「どういう理屈よ?」
「充電させて?」

 それまた……させろと同意語じゃない?

「週末云々よりもさっさと食べて行く用意しなさい」

 こんなやり取りにさえ幸せを感じる自分がいる。

 あぁ……私は望月 海という底なし沼に足を踏み入れてしまったらしい。
 抜け出せそうもない。

 このままこの男に溺れていく……そんな気がする。
 ……っていうか既に溺れてそう。






      
2007年10月06日

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