有名人な彼
第8話






 私は重い足取りで部屋に向かっていた。
 あの後、男は小銭をわざと落として、拾いながら伊集院君に何かを言ってから帰って行ったのだ。
 一体何を言ったか全く予想も出来ない。

 そういえば、あの男が店から出て行くのを初めて見た気がする……。
 今までどうやって中に入って帰っていたのだろう?

 鍵を開けて部屋に入ると珈琲の匂いが漂っていた。

「お帰り、彩さん」

 予想に反して穏やかな男の顔。
 不機嫌だとばかり思っていた私は無駄な心配で済んでよかったと安堵の息を漏らした。

 でも、何があったのだろう……?

「ただ……いま」

 何か薄気味悪いんだけど?

「今、珈琲淹れるよ」
「何よ? 急にどうしたの?」

 男は鼻歌を歌いながら珈琲をカップに注いでいる。

「彩さんさ、柴田さんと何か話した?」

 柴田さんと話すって……何を?
 私が柴田さんとする話って言ったらあんたの事しかないじゃない、って……え?!

「な……なんで?」

 動揺を誤魔化す事が出来ない。

 柴田さん……この男に何か話したんですか……?!
 ま……まさか……。

「柴田さんが2人っきりで話をしたって言ったから……違うの?」

 内容は……聞いてない、の?

 男は不思議そうに私を見ている。
 その様子は飼い主の機嫌を伺う犬のよう。

「違く……ないけど、あんたには絶対に言わない。関係ないし」

 男があからさまに頬を膨らませて拗ねた。
 聞いていたらこんな反応なわけがない。
 私は内心ほっとした。

「あんたこそ伊集院君に何言ったのよ?」

 あの後、伊集院君は妙にご機嫌だったけれど……この男が伊集院君を喜ばせるような言葉を掛けるとは思えない。

「彩さんは俺のだから口説かないでよって言った。帰りは、これ以上口説くなら彩さんに会社辞めてもらうからって」
「誰がそこまでの権限をあげたのよ?」
「あいつにも、君にそこまでの権限はないんじゃない? って笑われた。彩さんが悪いんだよ、あんな奴に口説かれてるから……」

 伊集院君が私を口説く……?
 何言ってんの?

「いつものリップサービスよ。真に受けなくてもいいのに……」
「それ、本気で言ってんの彩さん?」
「へ?」

 本気も何も……日課だし。

「彩さん、イタリアで口説かれてたの忘れてない?」

 イタリアで……?

 私は首を傾げる。

「彩さんが口説かれてるから俺口挟んだんだけど?」

 あぁ、あの時か……って、あれって口説かれてた……?
 いつもの調子だったけど?
 あ、この男は初めて見たからそう思っちゃったのかも。

「彩さん……天然もそこまでいくと犯罪だよ?」

 犯罪?
 一体何罪になるってのよ?

「部の人達って皆あんな感じだけど?」

 男の顔が曇る。

「彩さんって……どんな職場にいんのさ?」
「どんなって? 普通の職場じゃない? まぁ、女性が少ないとは思うけど」

 特別な職場ではないと思う。
 他の職場など知らないけれど。

「あの男が言ってた強敵って誰?」
「強敵……?」

 何なのよ、この事情聴取みたいな質問攻めは?
 まぁ、事情聴取なんて受けた事ないけれど。

「彩さん、俺の他にも男いるの?」
「あんたいつの間に私の男になったのよ?」
「やっぱモテるんじゃん」
「何それ、厭味? 喧嘩売ってんの?」

 あぁ鬱陶しい。
 そう思った時、朝の部長と伊集院君の会話が頭を掠めた。

 そういえば伊集院君が言ってたっけ。

 私は“強敵”を思い出して笑みを漏らした。

 強敵、ね……そっかそっか。

「何? その笑いは何? 何なのさ?」

 男がローテーブルにカップを置いて私の隣に腰を下ろした。

「強敵って……多分、部長の事よ。私の事凄く可愛がってくれてるお父さんみたいな上司」
「お……父さん?」
「そう。今……いくつだろ? 56とか7じゃないかしら?」

 男の顔が幾分和らぐ。

「何で強敵なのさ?」
「ん〜……いっつも周囲を威嚇してるから?」

 特に伊集院君を。
 なんで気に入られているのかは分からないけれど、部長には可愛がってもらっている。
 ま、嫌われるよりも好かれる方がいい。
 仕事もしやすいし。

「彩さんって名刺持ってる?」

 名刺……?

「あるけど?」

 事務員なので本来は必要などないが、プレゼンをやる時に配るように言われて作らされたのだ。
 社内でも珍しいケースだろう。
 私以外に名刺を持っている事務員さんなどいないのではないだろうか。

「頂戴」
「何でよ?」
「欲しいから」

 なんで名刺なんか欲しいんだろ?
 変なコレクションでもしてんのかしら?

 私は鞄から名刺を取り出して男に手渡した。

「絶対職場には掛けてこないでよ?」

 男が一瞬驚いたように見えた。

 そして、じっと名刺の裏表を見つめた後、嬉しそうな顔をしてセカンドバッグに仕舞う。
 その様子に違和感を感じたけれど追求はしなかった。

 その後はまったりと珈琲を飲んで、私がシャワーを浴びて出てくると……男はやっぱりソファで寝ていたのだった。

 毎度毎度……。

「疲れてるなら帰って寝ればいいのに」

 私は苦笑しながら寝室の毛布を持って来て男に掛け、背の高いフロアスタンドの電気だけを残して寝室に向かった。

「彩さん」

 ベッドに潜り込んだ瞬間男の声がした。
 振り返ると寝室の扉の入口に男が立っている。

「起こしちゃった?」
「俺が彩さんと一緒にいる時間を大切にしたいって思ってるの分かってるでしょ? なんで起こさないのさ?」
「疲れてるみたいだから」

 それ以外に何があるのよ?

「彩さんは分かってない。俺は1秒だって彩さんと離れたくない」

 男はそう言って私のベッドに潜り込んで来た。
 その腕は迷う事なく私を掴まえる。

「彩さんのぬくもりが欲しい」

 それは……やっぱり、させろと同意語じゃ……?

 男は私を組み敷いて微笑んだ。
 嫌な予感……。

「明日、彩さんも休みでしょ?」
「そりゃ……土日は休みだけど……?」
「寝かせないから」

 男はそう言って私に口付けた。

「勘弁して……んっ……!」

 そして男に翻弄させられながら何度も身体を重ねた。





 薄っすらと空が明るくなり始めた頃、男が呟いた。

「また3週間も会えないんだよ?」
「へぇ、3週間も海外? いいなぁ……」
「ドラマロケと写真集の撮影なんだけどね」

 そっかぁ……3週間、か。
 ちょっと寂しいかも……。

「寂しい?」

 男が私の顔を覗き込んでくる。
 図星なだけに悔しい。

「ほっとしてる」

 あぁ……私って素直じゃないなぁ。

「なんで?」
「絶対にあんたが来ないって分かったから」

 私は男の鼻先を指で弾いた。

「はうっ……!」

 鼻を押さえて男が上を向く。

「彩さん……引っ越す気ない?」

 男が急に真剣な顔で訊いてきた。
 少し赤みを帯びた鼻が笑いを誘うけれど。

 相変わらず何もかもが唐突だ。
 少し前の私なら、おかしな声を出して問い返していたに違いない。
 しかし、この男や柴田さんと関わるようになってこの程度では驚かなくなったようだ。

 慣れって恐いわね……。

「なんで?」
「ここ……セキュリティ万全じゃないし……良かったら俺の住んでるマンションに越して来ないかなって思って」

 この男の住んでいる場所もマンションも私は知らない。

「俺並びの部屋全部買い占めてるから安心して引っ越してこれるよ? 家賃も必要ないし」

 家賃なしってのは魅力的なんだけど……タダより高いものはないって言うし。

「週刊誌に彩さんを撮られたくない。彩さんを守るにもその方がいいと思うんだ。俺は彩さんを手放したくない」

 大人の男みたいな事言っちゃって……。

 その言葉に喜んでいる事を認めたくない私がいる。

「俺が海外ロケから帰って来るまでに考えておいて?」

 男はそう言って私を抱きしめた。
 私もこのぬくもりを手放したくない。

 なのに、まだまだ覚悟は出来ていなかった。

 男の言葉に即答できない自分が情けない。

 少し前なら即座に断ったと思うんだけどなぁ。
 断れない時点でかなりこの男に惹かれてるって事よね……。
 あぁ……どぉしよう。
 最悪の罠
(トラップ)に嵌ってしまった気がする。

 それよりも並びの部屋買い占めてるって言わなかった……?
 それってとんでもない事なんじゃ……?

 私はウトウトする男の顔を覗き込む。

 確かに売れっ子かもしれないけれど……この子の金銭感覚って大丈夫なのかしら?

「俺に見惚れてるの?」
「あんた……並びの部屋買占めたって言った?」
「うん、だって他の人に会いたくないから。近所付き合いって面倒そうだし」

 そういう奴なのよね、あんたって……。
 人見知りだってのは分っているけれど、大金使ってまで避けなきゃいけない事なのかしら?

「でも、結構芸能人が多く住んでるから社宅みたいだよ?」

 だからセキュリティがしっかりしてるのか?
 ……いや、逆ね。
 セキュリティがしっかりしてるから芸能人が多いのだろう。

「各フロアにちゃんと警備員が常駐してるから変な奴は入って来れないし、安心できると思うんだよね。だから彩さんにも住んでもらいたい」
「知り合ってそんなに経ってないのによく言えるわね?」
「彩さんにしか言わないし、他の人に言った事もないよ。俺は彩さんしか見えないって言ったでしょ? 俺はずっと彩さんだけを見てきたんだよ?」

 言われた気はするけれど……。
 それを信じろと?
 テレビドラマで歯の浮くような台詞を吐いている男の言葉を?

 そりゃ無理ってもんでしょ。
 冗談と嘘と本気の境界線なんか分かりゃしない。

 私は言葉を返すこともなく苦笑した。





 土曜日。

 私は昼まで寝ていた。
 こんなに熟睡したのは久しぶりかもしれない。

 隣に男の姿はない。
 目を覚まして男の顔を眺めるのが楽しみだった私はちょっぴり残念。

 帰ったのかな?
 仕事は休みだって言っていた気がするけれど。
 まぁ、いっか。

 私は再び布団に包まって瞳を閉じる。
 その直後、扉が開き足音が近付いてきた。

「彩さん」

 あれ……いたんだ?

 私は男の方に振り返った。

「おはよ、彩さん」

 男はシャワーを浴びていたらしい。
 髪が濡れている。

「髪……濡れてるわよ。乾かしなさい、風邪引くから」

 私は手を伸ばし男の頭にそっと触れた。

「俺……女に頭触られるの嫌いだけど、彩さんに触られると嬉しい」

 男はさわやかな笑顔を私に向けた。
 その手が伸びてきて私の頬を撫でる。

「彩さん……一緒に暮らそうよ」

 朝からその話……?
 って、もう昼だけど。

 男の顔が近付いてきた。
 そして唇が優しく触れる。
 唇も耳も首筋も……。
 唇が触れた場所が熱を持つ。

「こら……もう駄目っ……」
「なんで? 3週間も会えないのに……」

 このガキ……。

「私の身体がもたないのっ……あんたみたく若くないのよっ……」

 どれだけシたと思ってんのよ……?!
 既に身体が痛い……。
 大体今シャワー浴びて来たんでしょ?!

「仕方ないなぁ……じゃ、ちょっと休憩」

 ちょっと休憩……ってまだする気?!
 もういいでしょ、勘弁して……。
 本当に身体が辛い……。

「シャワー行ってくる」

 私は男の腕をすり抜け、腰を擦りながら寝室を出た。
 廊下には珈琲の香りが漂っている。
 私が寝ている間にスイッチを入れてくれたようだ。

 ちょっと嬉しい。

 緩む頬を押さえながら私は浴室に向かった。
 こんな顔、絶対にあの男に見られたくない。

 だって……悔しいじゃない?






      
2007年10月08日

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