大好きな彼女
― 12 ―
彼女が好きな珈琲を淹れて待っていようと思った俺は、キッチンのカウンターの上にあるコーヒーメーカーをセットしてスイッチを入れた。
彼女の見様見真似だが大丈夫だろう。
珈琲の量も缶に書かれている分量を守ったし、水も目盛りに合わせた。
そろそろ彼女が帰ってくる時間。
彼女が俺を嫌っていないと言った……。
その一言でこんなにも舞い上がっている。
……馬鹿だ。
柴田さんが呆れるのも頷ける。
彼女の部屋で1人ニヤけていると玄関の扉が開いた。
「お帰り、彩さん」
「ただ……いま」
彼女が何故か驚いている。
「今、珈琲淹れるよ」
「何よ? 急にどうしたの?」
俺は鼻歌を歌いながら珈琲をカップに注ぐ。
その様子を何故か気味悪げに見つめる彼女。
「彩さんさ、柴田さんと何か話した?」
「な……なんで?」
彼女が動揺を露にした。
どんな話をしたのさ?
この慌てっぷりからいい話ではなさそうだ。
「柴田さんが2人っきりで話をしたって言ったから……違うの?」
「違く……ないけど、あんたには絶対に言わない。関係ないし」
柴田さんも彼女もどうして教えてくれないのさ?
やっぱりいい話ではないから?
俺は頬を膨らませながら考える。
女同士の話って何なのさ?
俺には話せないような悪口でも言ってたわけ?
それなら話せないってのも頷ける。
実は……深く追求しない方がいいのかもしれない。
「あんたこそ伊集院君に何言ったのよ?」
急に話を逸らすし……。
こういう反応されるとすごく知りたくなるんだけどな……。
「彩さんは俺のだから口説かないでよって言ったの。帰りはこれ以上口説くなら彩さんに会社辞めてもらうからって」
「誰がそこまでの権限をあげたのよ?」
「あいつにも、君にそこまでの権限はないんじゃない? って笑われた。彩さんだって悪いんだよ、あんな奴に口説かれてるから……」
なんで警戒しないわけ?
「いつものリップサービスよ。真に受けなくてもいいのに……」
「それ、本気で言ってんの彩さん?」
「へ?」
リップサービスって……どれだけ鈍いのさ?
「彩さん、イタリアで口説かれてたの忘れてない?」
彼女は首を傾げる。
既に記憶から消えてなくなってしまったのか、告白される事に慣れているのか。
「彩さんが口説かれてるから俺口挟んだんだけど?」
彼女はどうしてこうも鈍いのだろう?
今までよく生きてこられたなぁと思わずにはいられない。
「彩さん……天然もそこまでいくと犯罪だよ?」
罪作りな女ってこういう人の事を言うのかもしれない。
本当に性質が悪い。
「部の人達って皆あんな感じだけど?」
は……?
皆?
「彩さんって……どんな職場にいんのさ?」
毎日口説かれてるって事?
あんな危険な、軽い男しかいないの?
それって凄く危ない職場なんじゃ……?
「どんなって? 普通の職場じゃない? まぁ、女性が少ないとは思うけど」
女性が少ないからって普通口説かないでしょ?
女なら誰でもいいってわけじゃないだろうし。
まぁ、あの男なら手当たり次第口説きそうだけれど。
でも、彩さんへの猛烈アピールは本物だと思う。
「あの男が言ってた強敵って誰さ?」
1番気になるのはそれだ。
「強敵……?」
彼女が考えるように俯きがちに右手を頬に当てた。
「彩さん、俺の他にも男いるの?」
それだけモテるのに男がいないなんておかしい。
「あんたいつの間に私の男になったのよ?」
そういうツッコミだけは忘れないんだね。
冗談でも俺を彼氏にはしてくれないのか……。
否定したがるのは気になる人がいるからだと思う。
柴田さん、やっぱ貴女の勘は当てにならないよ。
「やっぱモテるんじゃん」
「何それ、厭味? 喧嘩売ってんの?」
俺を睨み上げた彼女だったが、次の瞬間何かを思い出したように微笑んだ。
「何? その笑いは何? 何なのさ?」
俺はローテーブルにカップを置いて彼女の隣に腰を下ろした。
「強敵って……多分、部長の事よ。私の事凄く可愛がってくれてるお父さんみたいな上司」
は?
「お……父さん?」
「そう、今……いくつだろ? 56とか7じゃないかしら?」
オヤジか……。
「なんで強敵?」
「ん〜……いっつも周囲を威嚇してるから?」
なんでさ?
そんなオヤジが彼女を狙ってるとは思えないけれど……気になる。
「彩さんって名刺持ってる?」
「あるけど?」
「頂戴」
「なんでよ?」
「欲しいから」
彼女は首を傾げつつ鞄の中にあった名刺入れから名刺を取り出して俺に差し出す。
受け取った名刺を見た瞬間……信じられなかった。
あの話は……彼女だったのだ。
つまらないと思っていた家族の話が今やっと理解できた。
そして納得できた。
更に、彼女が好かれる理由までも。
俺はセカンドバッグに名刺を差し込んで1時間ほど彼女と珈琲を飲みながら他愛無い話をした。
さっきまでの会話はなかったかのようにいつも通りの空気。
これはやっぱり運命なんだ。
遅かれ早かれ俺達は出会う運命だったんだよ、彩さん。
俺はそう思いながら彼女を見つめていた。
「疲れてるなら帰って寝ればいいのに」
彼女の優しい声と、身体を包み込んだ毛布の温かさで俺は目を覚ました。
どうやら彼女がお風呂に行っている間に眠ってしまったらしい。
彼女の湿った髪が頬を撫でる。
背の高いフロアスタンドの電気だけを残して彼女は寝室へと向かったらしい。
足音が遠退いていく。
俺は起き上がって彼女の後を追った。
「彩さん」
彼女はベッドに潜り込んだところだった。
「起こしちゃった?」
さっきとは明らかに違う、いつも通りの素っ気ない声。
どうして?
さっきの優しい声は何だったのさ?
俺が寝ぼけてただけ?
気のせい?
そんなはずはない。
「俺が彩さんと一緒にいる時間を大切にしたいって思ってるの分かってるでしょ? なんで起こさないのさ?」
「疲れてるみたいだから」
でも、起こして欲しかった。
「彩さんは分かってない。俺は1秒だって彩さんと離れたくない」
俺は同じベッドに潜り込んで彼女を組み敷いた。
「彩さんのぬくもりが欲しい。明日、彩さんも休みでしょ?」
確か土日祝日って休みだったよね?
「そりゃ……土日は休みだけど……?」
「寝かせないから」
俺は彼女に微笑んで口付けた。
「勘弁して……んっ……!」
大好きだよ。
抱いても抱いても抱き足りないんだ。
もっともっと貴女を感じさせて欲しい。
傍にいるって実感したい。
なのに……俺の腕の中にいても名前を呼んでくれない。
貴女が誰を想いながら俺に抱かれてるのかは分からないけれど……今だけは独占させて?
俺は何度も何度も彼女を抱いた。
薄っすらと空が明るくなり始めた頃俺は彼女の髪を梳きながら呟いた。
「また3週間も会えないんだよ?」
「へぇ、3週間も海外? いいなぁ……」
いいなぁ……か。
「ドラマロケと写真集の撮影なんだけどね……寂しい?」
そんなわけないよね……。
「ほっとしてる」
やっぱりその程度か。
「なんで?」
「絶対にあんたが来ないって分かったから」
彼女が俺の鼻先を指で弾いた。
「はうっ……!」
俺は上を向いて鼻を押さえる。
勿論鼻血など出てはいない。
“ちゃんと望月 海の仮面被っておかないと彼女を巻き込むわよ? 週刊誌に撮られるわよ”
ふと、柴田さんの言葉が頭を過ぎる。
「彩さん……引っ越す気ない?」
こうやって頻繁に通っていたらいつか撮られるかもしれない。
撮られたくないけれど、撮られたら会えない。
会えないなんて……俺が我慢できない。
「なんで?」
貴女は俺に会わないくらい大した事じゃないんだろうけど……俺は気が狂っちゃうよ。
「ここ……セキュリティ万全じゃないし、よかったら俺の住んでるマンションに越して来ないかなって思って」
あそこなら安全だし、いつだって会える。
「俺並びの部屋全部買い占めてるから安心して引っ越してこれるよ? 家賃も必要ないし」
そんなのは言い訳だ。
ただ単純に傍にいて欲しい。
「週刊誌に彩さんを撮られたくない。彩さんを守るにもその方がいいと思うんだ。俺は彩さんを手放したくない」
彼女は何も答えてはくれない。
ま、当然か。
「俺が海外ロケから帰って来るまでに考えておいて?」
俺は彼女を抱きしめた。
このぬくもりを手放したくない。
もしかしたらロケから帰った時、聞きたくない言葉を聞くかもしれない。
そう想った瞬間、彼女に言ってしまった事を少しだけ後悔した。
小さな後悔の溜め息を漏らして瞳を閉じると、彼女の視線を感じた。
1度ギュッと目を瞑ってからゆっくりと瞼を持ち上げ彼女を映す。
「俺に見惚れてるの?」
そんなわけないよね。
「あんた……並びの部屋買占めたって言った?」
やっぱりな……。
気になるのはそういうとこだけなんだね。
「うん、だって他の人に会いたくないから。近所付き合いって面倒そうだし。でも、結構芸能人が多く住んでるから社宅みたいだよ」
俺の事なんか全く見てくれない。
俺なんかを愛してくれるはずもない。
それでも構わない。
ただ傍にいて欲しい。
傍にいてくれるならばそれ以上望まない。
だから、離れていかないでよ……。
「各フロアにちゃんと警備員が常駐してるから変な奴は入って来れないし、安心できると思うんだよね。だから彩さんにも住んでもらいたい」
「知り合ってそんなに経ってないのによく言えるわね?」
それって……何か誤解してない?
「彩さんにしか言わないし、他の人に言った事もないよ。俺は彩さんしか見えないって言ったでしょ? 俺はずっと彩さんだけを見てきたんだよ?」
今まで誰にも言った事はない。
貴女だからだよ。
彼女は苦笑しただけだった。
その顔は“嘘ばっかり”って言ってるように見えた。
やっぱり俺の気持ちなんか分かってない、分かろうともしてくれてない。
俺は彼女に口付けた。
唇を首筋に這わすと彼女が俺の身体を押し離す。
「もう……嫌っ……」
「駄目。寝かさないって言ったよね?」
俺は再び彼女を抱いた。
たくさんの印を彼女の身体に残しながら……。
目を覚ますと、彼女は腕の中で熟睡していた。
身体の至る所に俺が付けた赤い跡が残っている。
無警戒な寝顔に愛おしさが込み上げる。
「こんなに好きなのに……」
どうしたら貴女は信じてくれるのさ?
貴女は俺の腕の中で誰を想ってるのさ……?
徐々に気分が落ち込んできた。
俺は彼女の頬にそっと口付け浴室に向かった。
不安を洗い流すようにシャワーを浴びてからリビングに行き、珈琲メーカーのスイッチを入れる。
既に昼だ。
まぁ朝方まで何度も彼女と身体を合わせていたのだから、彼女も疲れているとは思うけれど……。
動いていないと落ち着かない。
彼女の寝顔を見ていると辛くなってくる。
誰を想いながらその穏やかな顔を浮かべてるのか。
考えるだけで嫉妬に狂いそうになる。
俺は彼女の眠る寝室に向かった。
「彩さん」
声を掛けると彼女が振り返った。
どうやら起きてたらしい。
「おはよ、彩さん」
俺は彼女に歩み寄ってベッドに腰を下ろした。
「髪……濡れてる。乾かしなさい、風邪引くわよ」
彼女の手が伸びてきて俺の頭にそっと触れる。
寝起きだからなのか彼女の声は優しかった。
誰に向けた言葉なのさ……?
「俺……女に頭触られるの嫌いだけど、彩さんに触られると嬉しい」
彼女の手に触れ、もう片方の手で彼女の頬を撫でた。
「彩さん……一緒に暮らそうよ」
彼女の右掌に唇を押し付ける。
彼女は朝一から聞きたくなかったのか顔を顰めた。
そんな顔しないでよ……。
俺は彼女の右手を掴んだまま彼女の唇を奪った。
耳や首筋に唇を這わせると彼女の息が乱れる。
「こら……もう駄目っ……」
「なんで? 3週間も会えないのに……」
もっと彼女の身体中に俺の痕跡を残しておきたい。
そうしないと居ない間に誰かに攫われてしまいそうで不安だった。
「私の身体がもたないのっ……あんたみたく若くないのよっ……!」
彼女が真っ赤な顔で抗う。
「仕方ないなぁ……じゃ、ちょっと休憩」
彼女は驚いた顔で俺を見上げた。
「シャワー行ってくる」
腕からすり抜け彼女は腰を擦りながら寝室を出て行った。
本当に身体が辛かったらしい……。
でも……俺はまだまだ足りないよ。
彼女を抱いても潤わない心。
この心の渇きは潤す事は出来ない。
多分一生……。
彼女が絶対に口にしない言葉しか俺の心を潤す事は出来ないのだから―――――。
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