大好きな彼女
― 14 ―






 彼女は酔っ払った澄香サンをタクシーで送って行った。
 その間に俺は空き缶を集めたり、皿を洗ったりして余計な事を考えないようにした。

 珈琲メーカーのスイッチも忘れずに入れた。
 彼女が珈琲を飲みたがると思ったからだ。

「ただいま」

 玄関から声。

「お帰り。ご苦労様」

 リビングに入って来た彼女に珈琲の入ったカップを差し出す。

「ありがと」

 意外にも素直に礼を言われてドキッした。

「いい友達だね」
「そうね」
「俺を見ても写メも撮らなかったし、サインも強請(ねだ)らなかった」

 それくらい強請られるだろうと覚悟はしてたのだが、そういった事は全くなかった。
 さすが彼女の親友である。

「そうね。でも、澄香はあんたのファンだから後日こっそり頼まれるとは思う」

 彼女はクスクスと笑った。

「彩さんも楽しそうだった」
「あんたも楽しそうだったじゃない」
「楽しかったよ。彩さんの話たくさん聞けたし、澄香サンに会えたし」

 彼女はカップに口を付けながら視線を逸らした。

 まただ……。
 なんでそうやって俺から目を逸らすのさ?

「片付けてくれたの?」

 彼女がテーブルの上を見ながら尋ねる。
 決して俺を見ようとはしない。

「彩さんが彼女送って行ったからその間にね」
「ありがと……」

 彼女が素直だと調子狂うなぁ……。

「もしかして酔ってる?」

 彼女が疑うような目で俺を見上げる。
 こっちが訊きたいよ。

「全然。俺酔わないみたい」

 酔えるわけないじゃないか……。
 知らない貴女の話を聞いているのに……俺が望んでいた事なのに。
 貴女こそ酔ってるんじゃないの?
 こんなに素直に礼を言うなんてさ……。

「そんなにじっと見ないで、凄く恥ずかしいんだけど?」

 俺の視線を避けるように彼女は背を向けた。

「3週間も会えないんだもん、今夜はずっと見てたい」
「駄目、寝なさい。あ、その前にお風呂行ってきなさいよ?」

彼女はそう言ってキッチンに入って行った。

「彩さん、訊いてもいい?」
「何……?」

 もし、貴女が酔ってるなら話してくれるだろうか?
 素直に答えてくれるだろうか?

 俺は彼女に傍に歩み寄った。

「少しは……俺の事好きになってくれた?」

 彼女の肩が僅かに震えた。
 気付かないふりをして彼女の長い髪をそっと掻き上げる。

 そして、シンクにカップを置いたのを確認し、彼女の両肩を掴んで身体を冷蔵庫に押し付けた。

「なっ……何?」

 彼女は驚いて顔を上げた。
 やっと俺を見てくれた。

「俺の勢いに負けてるだけ? 俺の事嫌い? ……俺は愛してるよ、彩さんを愛してる」

 “愛してる”なんてドラマ以外で口にするなんて思わなかった。
 でも……“好き”だけでは足りない。
 そんな簡単な……単純な感情ではない。

「彩さんは……? 俺、不安なんだ。俺の勢いに流されてるだけみたいで……名前も呼んでくれないし、素っ気ないし……俺、嫌われてるの? 答えて彩さん、俺……迷惑?」

 酒のせいかもしれない。
 でも、溢れ出した感情は抑えられない……止まらない……。

「そんな事……ない……」

 彼女が小さな声で答えた。

「流されてるわけじゃない……」

 迷惑じゃない?
 流されてるわけじゃないの?

 俺は彼女を抱きしめた。

「彩さん……俺が素の望月 海になれるのは柴田さん以外では彩さんだけなんだよ? 彩さん、愛してる……俺を見てよ……」

 俺は震える小さな声で訴えた。

 本当の俺だけを見てよ―――――――。





 翌日、彼女の部屋から海外ロケに向かった。

「昨日、彩さんの友達に会ったんだ」

 迎えに来た柴田さんにそう告げると、柴田さんは簡単な相槌だけで流した。

「へぇ……」
「彼女の昔の話とか聞いたんだ」
「そう……」
「友達さん、凄く酔っ払っちゃって……彩さんがタクシーで送り届けたんだよ」

 澄香サン……二日酔いになってないかな……?

「よく会わせてくれたわね?」

 何が?

「話の流れだよ。彩さんも断りきれなかったみたいだし、澄香サン勢いだけで押し寄せて来たって言うか……彩さんも彼女には勝てないみたいだった」
「友達にあんたを会わせるなんて、すごい覚悟が要ると思わない?」

 覚悟?

「何さ、それ?」
「芸能人と付き合ってる事を打ち明けるって……彼女もその友達を本当に信用してなきゃ出来ない事だって言ってんの」

 あぁ、そういう事か……。

「でも……俺、彼女の彼氏ではないみたいだけどね……友達だって言って会わすくらい簡単な事でしょ」
「あんたがどうでもいい存在だったら友達には会わせないわ。疑われたくなければ特にね。勿論私なら、だけど」

 柴田さん、それって……俺が落ち込んでるのを感じ取って励ましてくれてる?

「俺……少しは期待してもいいのかな……?」

 柴田さんは何も答えてはくれなかった。
 ただ……。

「誕生日までには戻って来れるといいわね」

 そう言っただけ……。
 俺の誕生日なんて彼女は興味ないよ、きっと……。





 アメリカに辿り着いたその日からハードな撮影が始まった。

 ロケの合間に写真集の撮影。
 帰国後も仕事が詰まっているので滞在日数は1週間以上延ばす事は出来ない。
 早く終われば1週間の休みが取れるけれどそれも期待できない。
 この監督は妥協しないからだ。

 そういうところがこの監督のいいところなんだけどさ……。
 それに、雑誌の取材がここでも行われるとは思わなかった。
 わざわざ海外まで追い掛けて来る必要があるのかな?

 カメラマンはモニターチェックしてるところや休憩でボーっとしてるところなど、所謂オフショットを撮りまくっている。
 お蔭でホテルの部屋以外では常に望月 海を演じていなければならないし、かなり疲れる。

 俺は少し離れたパラソル下の椅子に腰を下ろして大きな溜め息を吐いた。

「大きな溜め息ね」

 柴田さんが苦笑した。

「そりゃ溜め息も出るよ。ずっと演じてなきゃいけないんだからさ」

 早く帰りたい、早く彩さんを抱きしめたい……。

 時々電話をして撮影の状況などを彼女に伝えてはいるけれど、彼女はいつも素っ気ない。
 まぁ、話したところで彼女には理解出来てないのだろうが。
 それでも彼女が電話に出てくれるだけで嬉しかった。
 彼女の声が聞ける事が嬉しかった。

「随分焼けてきたわね」

 アメリカにやって来て2週間。
 毎日強い日差しに当たってるせいで肌は浅黒くなってきていた。

「望月 海らしくないかな?」
「海らしいって何よ?」

 俺と柴田さんは顔を見合わせて微笑んだ。

「海も笑ったりするのね」

 柴田さんじゃない声。
 だけど聞いた事のある声に驚いて、俺は緊張した顔で振り返る。

 そこにはもう3年も会っていなかったあの女性が立っていた。

「……さやかサン」

 なんでこんなところにいんのさ?

「撮影やってるみたいだから覗きに来たの。まさか海がいるなんて思わなかったけど」

 さやかサンは微笑んだ。

「さやかサンも何かの撮影?」
「そ、つまんないアイドルのお相手」

 へぇ……。

 バッチリ化粧も決まってるし服装もピシッとしてるけれど……会わない間に随分老け込んだ気がする。

「海、今晩暇?」
「なんで?」
「いくら久々だからって言わなくても分かるんじゃない?」

 俺は小さな溜め息を吐いた。

「今、俺は好きな女以外欲しくないんだ。さやかサンを抱く事は出来ない」

 彼女以外欲しいとは思わない。

「変わったわね、海」
「そう?」

 さやかサンはポケットから煙草を取り出した。

「さやかサン、まだ吸ってるの? やめなよ、身体に悪いよ?」
「余計なお世話」

 さやかサンは煙草を銜え、火を点けた。

「海、行くわよ」

 黙って見ていた柴田さんが口を挟んだ。
 さやかサンは柴田さんを睨むように見ている。
 言葉のない女同士の険悪な空気って鳥肌が立つ。

「海は煙草嫌いなのよ。それに、ここには灰皿もない。ポイ捨てはやめて頂戴ね」

 柴田さんはさやかサンにそう言うと俺の背中を押して撮影クルーの許に歩かせた。

「彼女に関わるんじゃないわよ?」

 珍しく柴田さんが硬い声で言った。

「関わるも何も、もう終わった関係でしょ? 俺は彩さん以外欲しいと思わないし」

 さやかサンを見ても何とも思わなかった。
 所詮そんな程度なのだ。
 さやかサンとの関係なんて下半身が繋がっていただけの事。

 ただ……。

「絶対に2人きりにはならないで。あんた利用されるわよ? 彼女今仕事なくなってるから」
「……なんでそんな事知ってんのさ?」
「利用される可能性があるからあんたが昔関係持った女は定期的に調べてんのよ」

 柴田さんの言葉に驚いた。

「彼女はまたあんたのところに来るわ。彼女の傍では絶対に食べ物も飲み物も口に運んじゃ駄目よ」

 恐い世界だよね、芸能界ってさ。

「分かった」

 色々な薬が簡単に手に入る業界だ。
 俺だって信用しない奴との食事は注意してる。
 席を1度外したらその後は食事には手を付けないとか、相手が淹れた飲み物は絶対に飲まないとかね。
 そういう意味でも神経を使う世界だ。

 こんな世界に彼女を……彩さんを巻き込んじゃいけない……。





 海外ロケも3週間目に突入。

 海辺でのロケを終えて柴田さんと一緒にホテルに帰って来た。

「海」

 聞き覚えのある声が俺を呼んだ。
 無意識に溜め息が漏れる。

「……また来たの?」

 振り返った先にはさやかサンが立っていた。

「柴田さん、海と2人きりで話がしたいんだけど?」
「それは出来ないわ」

 柴田さんはさやかサンの言葉を即時却下した。

「有名になったら私なんてどうでもいい?」
「俺との関係なんて有名になる前から終わってたでしょ? それに結婚したんじゃなかった?」

 写真界の大御所と。

「仮面夫婦よ」
「そんなの俺には関係ないよ」

 仮面夫婦でも鴛鴦
(おしどり)夫婦でも。

「今更貴女と関係を持つ気はないよ」

 彼女しか欲しくない。
 彼女以外要らない。

「昔はあんなに……」
「昔話をする気もないよ。欲求不満なら他で解消して。俺は使えない。多分貴女の裸を見ても興奮さえしない。今の俺は役立たずだよ」

 俺は真っ直ぐにさやかサンを見据えた。

「私が老けたから?」
「違うよ。俺の盛りの時期は終わったんだ。誰にでも発情するなんて事はもうないんだよ」

 彼女にだけだ。
 俺の身体は彼女以外を求めたりしない。

「つまらない大人になっちゃったわね」
「俺は元々つまらない男だよ。本当の俺を見ようとしなかったのはさやかサンだ。俺の名前を使って今更這い上がろうとしても無駄だよ。多分逆効果だ」

 俺は苦笑した。
 そんな事を考えるところまで堕ちてしまったさやかサンが可哀想だとも思った。

「そうね、貴女が今干されてるのは被写体と関係を持つからなのよ。倦厭されてるの。ここで海の名前を使えば貴女は間違いなく業界から消える事になるわ」

 柴田さんはさやかサンに淡々と告げる。

「勿体ないよ、さやかサンは綺麗な写真を撮るのに……そんな事で消えないでよ」

 さやかサンの写真は好きだ。
 それは事実。

「嫌な男……」
「俺はさやかサンの写真、本当に好きだよ。被写体の魅力を最大限に惹き出せるのはさやかサンの才能だと思う」

 さやかサンは俯いてしまった。

「さやかサンならまたあの場所に戻れるから……諦めないでよ」

 柴田さんが俺の背中を叩いた。
 それは部屋に帰れという合図だと思う。
 俺はさやかサンに背を向けて歩き出した。

「海!」

 さやかサンが俺を呼ぶ。
 震える彼女の声を無視する事なんか出来ない。
 振り返ると泣き出しそうな顔をしたさやかサンが俺を見つめていた。

「私……また戻れると思う?」
「うん、きっとね」

 さやかサンの目から涙が零れ落ちた。
 でも、それを拭ってやる事なんか出来ない。
 それをしていいのは旦那さんだけだ。

「また……いつか、一緒に仕事できる?」
「さやかサンが腐らなきゃ叶うよ、きっと」

 さやかサンとの関係が清算された瞬間だったのではないかと思う。
 柴田さんは俺を見上げて微笑んだ。

「彼女の……彩さんのお蔭かしら?」
「そうだね」
「彩さんに会う前だったら関係復活だったんじゃない?」
「かもしれないね。あぁ……彩さんに会いたいなぁ……」

 彼女の存在はとてつもなく大きくなっている。
 だから、さやかサンと再会した先日から気になっていた。

 彼女と有耶無耶
(うやむや)な状態で終わっている事が……。

 さやかサンに再会した時、きちんと終わらせてから彼女のところに帰りたいと思っていた。
 今日来てくれたのはお互いにとって良かったのかもしれない。

 俺は大きく身体を伸ばしながらエレベーターに向かった。





「やっぱなぁ……」

 俺は大きな溜め息を吐いた。

「何シケた顔してんのよ?」
「別にぃ〜」

 予想はしてたけどさ……。
 やっぱり撮影は3週間じゃ終わらなかった。

 監督のOKが出ない。
 出ない。
 出ない。
 まだ、出ない!

「オフもなくなっちゃったなぁ……」

 分かっていた事だけどさ……。

「あんたの好きな監督でしょ? 我慢なさい」
「してるよ」

 俺は頬杖を突きながら他の出演者を眺めていた。

「でも、オフは欲しいなぁ……帰ったら2日くらい……」
「無理」
「だぁよねぇ……」

 俺は諦めモードで苦笑した。

「大丈夫よ、あんたの誕生日には帰してあげる」

 柴田さんは真っ直ぐに撮影風景を眺めながら微笑んだ。

「空き時間だけは長く取ってあるからゆっくりなさい」

 柴田さんはそう言って俺の頭を台本の角で何度も突く。
 結構見た目よりも痛い。

「痛っ……! 角、角!」

 柴田さんの攻撃を避けた拍子に椅子から転げ落ちた。
 その様子を眺めていたスタッフ達が笑っている。

「望月 海のイメージが変わったら柴田さんのせいだからね」

 頭を擦りながら柴田さんを見上げる。

「こんな事くらいじゃ変わらないわよ。それどころか好感度が上がるんじゃない? 人間らしさがあって」

 まったく……何考えてんのさ?
 柴田さんとは長い付き合いなのにいつまで経っても理解できない。

 俺は立ち上がってきめ細かい砂を蹴り上げた。






      
2007年11月12〜13日

背景画像 : 黒渕 要 様
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