大好きな彼女
― 4 ―






 初めて彼女を見てから2年7ヶ月が過ぎていた。

 恋焦がれた彼女が今……俺の腕の中にいる。
 夢のような現実。

「すんません!」

 俺は先ず謝った。

 逃げるべきなのは充分に分かっている。
 けれど、彼女を手放したくなかった。

「こっちに来たはず!」

 俺を追ってきたと思われる女の声。
 彼女に見惚れている間に追い付かれてしまったらしい。

「やべっ……!」

 かなりの足音が近付いてくる。

 冷静な判断など出来なかった。
 俺は彼女の服を握り締めたままその背後で身を屈める。

「海だよ! 望月 海
(もちづき かい)がいたの!」

 彼女が気付いたように屈んだ俺を見下ろす。

「あぁ……望月 海」

 何とも感情のない声。

 でも……俺を知ってる?

 こんな笑えない状況の中、俺は内心喜んでいた。
 彼女が俺を知っていてくれた事を。

「ちょっと助けて。サインならあとであげるから」
「要らないわ」

 要らないって……もしかして、俺の事嫌い?

 ありえる話だ。
 テレビの中の俺は無表情のロボットのようなものだから。
 感情が薄いし笑う事はない。
 そんな俺に好印象を抱いてくれるのはごく少数だろう。

 落ち込みそうになった俺に、彼女は鞄に入っていたカーディガンを被せ、ペットボトルの水を差し出してきた。

「俳優なら吐く真似くらいできるでしょ?」

 足音はどんどん近付いてくる。
 落ち込んでいる時間などない。
 俺はペットボトルを受け取って口に含んだ。

「だから飲み過ぎだって言ったでしょ?」

 彼女が俺の背中を優しく擦り始めるとほぼ同時に、大勢の女達が俺達の傍を駆け抜けて行く。

「ねぇ、望月 海見なかった?」

 見知らぬ女が彼女に尋ねる。

「知る訳ないでしょ! こっちはそれどころじゃないのよ、見て分からないわけ?!」

 彼女は女達に苛立ったような声を返す。
 だから、タイミングを見計らって勢いよく水を噴いた。

「いやぁ! 汚っ」

 女達は耳障りな声で騒いで足早に去って行く。
 俺は足音が遠退くのをただ黙って待っていた。

「行ったみたいよ」

 彼女がカーディガンを剥ぎ取る。

「ありがとう、助かった」

 俺は口元を拭いながら立ち上がって彼女に微笑んだ。

「じゃ」

 彼女はあっけなく俺に背を向ける。

 え……それだけ?
 俺、望月 海だよ?

 思わず彼女に手を伸ばし、再び服を掴んだ。

「何の真似かしら?」
「携帯の充電切れちゃって困ってるんだけど、助けてくれない?」

 もっと一緒にいたい……。
 せっかく話すチャンスが舞い込んだのだ。
 今、彼女から手を放してしまえば忘れられてしまう。

「コンビニで買えば?」

 店内で見ていた彼女とは別人のような冷たさ。
 見知らぬ人間にまで優しいとは思っていなかったけれど……ここまで冷たいとは予想外。

「近くのコンビニで売り切れだったんだ。お姉さんの携帯のメーカーは?」
「ド●モだけど?」

 俺と同じメーカー……。

「お姉さんの充電器貸して」

 こんなチャンスはきっともう2度とない。
 柴田さんがくれたチャンス。
 神様がくれたチャンス。
 これを逃したら一生後悔する。

「何言ってんの?」
「お願いっ」

 俺は両手を合わせて彼女に頭を下げた。

「そこのコンビニで充電器買おうとしたらバレちゃって、他のところでもこんな目に遭うのかなんて考えたら恐くて行けないよ……」

 決して嘘ではない。

「マネージャーの携帯番号もスケジュールもこの中だし途方に暮れてんの。助けて、ね?」

 思いつく言葉をとにかく並べる。
 スケジュールなど柴田さんが知ってればいい事だし、自分で確認する必要は全くと言っていいほどないのに。

「充電だけね」

 彼女は溜め息を吐いて近くのタクシー乗り場に向かった。

 今……なんて言った?

「あの、お姉さん……?」
「電車なんて乗れないでしょ?」

 彼女が停まっていたタクシーに乗り込む。

 俺は……?

「早くしなさい……って別に来なくても構わないけど」

 現実とは思えない現実に俺はこっそり二の腕を抓った。

 当たり前だけれど……痛かった。





 2LDKの賃貸マンションに彼女は1人で暮らしているようだ。
 彼女の人柄を表すように心地よい空間。
 初めて来たのに心が穏やかになる錯覚を覚える。

「結構いいところに住んでるんだね」

 ここが、彼女の部屋……。
 彼女らしい部屋だ。

「携帯貸しなさいよ、充電するから」

 彼女は素っ気なく手を差し出す。

「お姉さん、名前は?」

 携帯電話を彼女に渡しながら、確認するように尋ねた。

 2年以上前から名前は知っている。
 しかし、面識はないのだから知っていたら気味悪がられるだろう。
 それに……。

 俺は夢を見ているのではないか?

 そんな気持ちになってしまう。
 こんな幸せな偶然が現実に起こっているとは簡単に信じられない。

「五十嵐 彩
(いがらし あや)

 やはり彼女だ……夢ではない。

 部屋中を見回しながら俺は何度も彼女の名前を心の中で繰り返す。
 彼女は携帯のソケットに充電器を差し込んで俺の手の上に乗せた。
 しっかり電源が入れられている。

「はい。マネージャーさんにでも電話して迎えに来てもらって」

 彼女はそのままリビングから消えた。

 俺……芸能人なんだけど?
 もしかしたら芸能人嫌いなのかな……?

 彼女のあまりの関心のなさに少しだけ胸が痛んだ。

 柴田さんに電話をするべきなのか?
 いや……今日は旦那さんと一緒にいるのだから迷惑は掛けられない。

 暫く携帯を持ったまま考えたけれど、結局携帯を開く事はなかった。
 開きたくなかったといったほうが正しいのかもしれない。

 彼女ともう少しでいい、同じ空間にいたい。
 彼女と一緒にいられるのならば行方不明になっても構わないとさえ思った。

「……まだいたの?」

 彼女は風呂に行っていたようだ。
 濡れた髪を拭きながら呆れた顔で俺を見ている。

「だって電話が繋がらないんだもん」

 もっと一緒にいたい。

 だから……嘘を吐いた。
 小さな小さな嘘を吐いた。

「珈琲くらい淹れてあげる。でもさっさと帰ってよね」
「彼氏でも来るの?」
「いたらあんたを部屋に上げたりしないわよ」

 彼氏、いないんだ……。

 俺はほっと安堵の息を漏らす。

 そうだよね、彼氏がいるならあんなに頻繁に飲みになんか出掛けないよね。

「じゃあ、今日泊めて?」

 もっと貴女を知りたい……。

「あんたねぇ……」
「海。俺の名前、望月 海」
「知ってるわよ」

 そのわりに冷たいじゃん……。

「彩さん、ビールない?」

 一緒に飲むの夢だったんだよね。

「あんた遠慮ってモノ知らないの?」
「遠慮なんてしてたら生きていけないよ」

 芸能界ってそういう世界だもん。
 遠慮なんてしていたら潰される。
 あの手この手を使って頂点にいる奴を引き摺り下ろして這い上がるのがこの世界。

「遠慮しないで生きてたらそのうち刺されるわよ」

 それってどんな世界さ?

 彼女は冷蔵庫を開けて缶ビールを1本取り出した。

「銘柄に文句は言わないでよね」
「彩さんも一緒に飲もうよ」
「私は外で飲んできたからもういいわ」

 彼女は珈琲メーカーのスイッチを入れて対面キッチンのカウンターの椅子に腰を下ろし、テレビを点けた。

 何を話していいのか分からない。
 ドラマのアドリブのようにはいかない現実。
 吐き出す言葉を間違えたら放り出されるという緊張。

「彩さんっていくつ?」
「女に年齢訊くなんて最低の男のする事よ?」

 もしかして禁句……?
 一言目から自爆……?
 俺……地雷踏んじゃった?

「彩さん俺と変わらないくらいかなって思ったから訊いたんだけど?」
「そんなわけないでしょ?」

 どうせ25とか6でしょ?
 言えない年齢ではないと思うけれど……。

「あんた22でしょ?」
「うん、彩さんだって25くらいでしょ?」
「30」

 え……30?

「嘘でしょ?」

 こんなに可愛い人が8つも上?
 どんな手入れをしていたらこんなに若くいられるの?

「だって芸能人の30って素顔見れないよ?」

 俺は立ち上がって彼女を見つめた。
 徐々にその距離を縮めながら。

「彩さんはすっぴんも綺麗」

 タクシーの中で見た彼女はノーメイクかな? と思うくらいに薄化粧だった。
 だから今もさっきと変わらない顔をしてる。

 もっと近くで見たい。
 触りたい。

 俺はカウンターに肘をついた。

「喧嘩売ってんの?」
「ううん、綺麗だから見てたいなって思って」

 本当に綺麗な肌をしている。
 俺と同年代の女優だってこんなに綺麗ではない。
 俺の周りにいる奴等はクレーターみたいな素顔を特殊メイクのように厚塗りしているのに……この女
(ひと)の顔には吹き出物1つない。

 俺は彼女の眼鏡を外した。
 綺麗なのは肌だけではなかったようだ。

 虹彩の色は明るく綺麗な茶色、強膜も濁りのない綺麗な白。
 吸い込まれそうなくらいに綺麗だと思った。

 昔、視力の弱い人は瞳が綺麗だと聞いた事がある。
 彼女を見て、それは本当の事なのかもしれないと感じた。

「返しなさいよ、見えないじゃない」

 奪った眼鏡に手を伸ばす彼女との距離が一気に縮まる。
 途端に心拍数が上昇した。

「俺の顔見える?」

 彼女の眼鏡を持った右手を更に遠退け、左手で彼女の耳の後ろから顎のラインをなぞった。

「み……見えるけど……」

 彼女もあまりの近さに動揺している。
 それを必死に隠そうとしているところも可愛い。

 そんな彼女に触れたいという衝動。
 逆らう事など誰が出来るだろう?
 この2年7ヶ月恋焦がれていた女
(ひと)を目の前にして理性なんてものが働くわけがない。

「あんま近くなると見えな……」

 俺は彼女の唇を塞いだ。
 いい匂いが鼻腔を擽る。

 シャンプーの馨りだろうか?

「俺……彩さんに惚れたって言ったら信じる?」
「絶っっ対に信じない」

 そんなに思いっきり否定しなくても……。

 当然の事だとは思うけれどかなりショックだ。

「欲求不満なら他で解消して。当てはいくらでもあるでしょ?」

 どこかで聞いた記憶のある台詞。

 ……あ、いつだったか俺が女に言った言葉か。
 まさか自分が吐いた台詞をそのまま返される日が来るとは思わなかった……。

 彼女は立ち上がりキッチンに入って珈琲を淹れた。

「あんたも飲む?」

 また“あんた”?

「海」
「え?」
「あんたってやめて。海って呼んで。彩さんの声で呼んで欲しい」
「で? 飲むの飲まないの?」

 俺の言葉は完全に無視
(スルー)された。

「飲む」

 俺が芸能人だろうが一般人だろうが彼女には関係ないらしい。

 だからって……無視しなくてもいいんじゃない?
 少しくらい聞いてくれてもいいんじゃない?

 俺は拗ねた顔を彼女に向けてふと気が付いた。

 今の俺……素だ。
 素の、本物の……望月 海斗
(もちづき かいと)だ。





「いい加減、電話繋がるんじゃない?」

 彼女は溜め息混じりにそう言って俺を見た。
 迷惑そうな顔をしている。

「彩さんはそんなに早く帰って欲しいの?」
「当然でしょ?」

 当然なの?

「泊めてくれるんじゃないの?」
「仕事あるんじゃないの?」

 あったら駄目って事は、なかったらいいわけ?

「芸能人は観賞物よ。さっさと迎えに来てもらって。でなきゃ安心して寝れないじゃない」

 観賞物……か。
 現実には関わりたくないと言われてる気がする。

「彩さん、眠たいの?」
「眠いに決まってるでしょ? 何時だと思ってるの?」

 午前2時。
 俺はなんともないが、彼女のように会社で働いている人にはしんどいのかもしれない。

 彼女はリビングから姿を消した。
 彼女から離れたくなくて、俺はその後を追う。

 彼女は寝室でベッド脇の本を取ろうとしていた。
 あまりにもその背中が無防備で、耐えきれず後ろから抱きしめてしまった。

「ちょっ……?!」
「彩さんいい匂い……」
「放しなさいっ。おばさんをからかわないでっ!」
「おばさんなんて思ってないよ?」

 彼女の身体が俺の体重に耐えられずベッドに倒れ込む。

「言ったでしょ? 彩さんに惚れたって」
「会って数時間で惚れるってありえないわ」

 そんな短時間ではない。

「俺はもっと前から彩さんを知ってるよ?」

 俺はずっと見ていたのだ。
 2年7ヶ月もの間ずっと。

「はい?」

 彼女は怪訝そうな顔をしていた。
 当然だろう。

 俺が貴女を見ていた事など、翔平と柴田さん以外知らないのだから。

「彩さん、新橋で結構頻繁に飲んでるでしょ? 友達がやってる店で彩さんを見掛けたんだ。可愛い人だなって思った」

 手の届かない女
(ひと)だと思っていた。
 それなのに……今、彼女は俺の腕の中にいる。

「彩さんはいっつも会社の人達と来てて二次会前に退散するんだよね?」
「スケベオヤジの相手なんかしたくないもの」

 上司なんてあんまり一緒に来ないじゃん。
 いつものメンバーで来ても大体9時、遅く来た時でも10時には帰って行くよね。

「皆に可愛がられて笑顔の彩さんをいっつも眼が追ってた」

 行く度に貴女の傍にいる男達に嫉妬していた。

「偶然、彩さんにぶつかって……彩さんが助けてくれて、運命だって思った」
「運命なんてない。さ、放して頂戴」
「真剣に聞いてよ」

 軽くあしらわれて正直ムッとした。
 うつ伏せだった彼女の身体を反転させて俺は真剣な眼で彼女を見つめる。
 俺の気持ちを聞き流して欲しくなかった。
 本心だからこそきちんと聞いて欲しい。

「会社の人達が彩さんが帰ってからも彩さんの話で盛り上がってるのを見て、愛されてるんだなぁって思ったよ。皆彩さんが大好きなんだなって……悪口言う人なんかいなかった。2度3度見ていたら彩さんしか見えなくなってた。彩さん、俺と真剣に付き合ってよ」
「嫌」

 即答された。

 どうして信じてくれないのさ?
 俺は真剣に話してるのに……。

「彩さん……どうしたら信じてくれる?」
「何しても信じない」

 何でさ?
 俳優なんてやってるから?

 リビングで俺の携帯が鳴り出した。
 あの着信音は祥平だ。
 俺が追い掛けられたのを知ったのかもしれない。

「あんたの携帯鳴ってるわよ? 早く出なさいよ、マネージャーさんからじゃないの?」
「彩さん、黙って」

 俺は彼女の唇を塞いだ。

「ちょ……っ! あっ……」

 唇で首筋をなぞると、悩ましい彼女の声が漏れる。
 暫くの間、無駄な抵抗をしていた彼女だったが、深いキスを繰り返しているうちに少しずつ俺に身を委ねてきた。

「彩さん……」

 夢のようだ。
 恋焦がれた彼女は今……俺の腕の中。

 俺は彼女を抱きながら何度も何度も彼女の名前を呼び、何度も何度も好きだと言った。
 偽りのない言葉だった。

 ほんの少しでも彼女は信じてくれただろうか……?







      
2007年11月03日

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