大好きな彼女
― 5 ―
疲れて眠る彼女を俺は見つめていた。
夢ではないのだ……。
好きな女(ひと)を抱くというのは幸せな事なのだと初めて知った。
今まで惚れた女を抱いた事などない。
惚れたのは彼女が……彩さんが初めてなのだから。
初めて抱いた女は当時35歳の女カメラマン、さやかサン。
14の時食われたと言ったほうが早いだろう。
彼女は積極的な人だった。
柴田さんに掛け合い、俺の予定を調整してもらっていたようだ。
当時のスケジュールはかなり余裕があった。
彼女の方が俺よりも遥かに忙しかった。
彼女に惚れていたというわけではない。
ただその行為に興味があった。
多分彼女も若い男が食いたかっただけだろう。
彼女の会いたい日に会って、お互いが満足するまで身体を重ねる。
彼女との関係は4年間続いた。
何となく会う回数が減り自然消滅。
彼女との関係が終わったと思っても寂しさや哀しさなどの感情は抱かなかった。
その後、俺のスケジュールは埋まり始め現在に至る。
その間に関係を持った女は何人かいた。
それも惚れたわけではなかった。
誘われたからというだけ。
こんなに四六時中女の事を考える日が来るとは思ってもなかった。
リビングで俺の携帯電話が鳴り出した。
この着信音は柴田さん。
部屋に来て、俺がいない事に気付いたのかもしれない。
彼女がモゾモゾと動く。
俺は彼女の反応を見たくて寝たフリをしてみた。
目を覚ました彼女は暫く固まって悩んでいた。
何を考えているのだろう……?
彼女は朝一から表情をコロコロ変える。
笑い出しそうになった俺は目を開け彼女に微笑んだ。
「……おはよ、彩さん。身体……大丈夫? 久しぶりだったんでしょ?」
多分初めてではないと思う。
真っ赤な顔で俺を睨む彼女の腕を掴んだ。
なんでそんな事が分かるのよ? とでも言いたげな顔。
「昨日、痛そうだったから何となくそんな気がしたんだ」
「あんたの携帯鳴ってたわよ」
図星だったらしい。
彼女はツッコミを入れたくなる位わざとらしく話を変えた。
それにしても……また“あんた”か……。
彼女はベッドでも俺の名前を呼んではくれなかった。
「海。いい加減呼んでよ」
「嫌」
即答だった。
彼女はベッド脇に転がっている丈の長いパジャマを拾い上げて羽織った。
下着も身に着けないその姿が、誘っているようにしか見えない事に彼女は気付いていない。
「彩さん、もっと一緒にいようよ」
「仕事をいい加減にやる男は嫌いよ」
もっと体温を感じていたいのに……。
彼女はさっさとリビングに行ってしまった。
今し方まで彼女がいた場所に手を伸ばすと彼女の温もりが残っている。
夢ではないのだ……。
俺は彼女の素っ気なさに苦笑しながらも1人幸せに浸っていた。
「か……海……!」
彼女が俺の名前を呼んだ。
聞き間違いなどではない。
「彩さん、今呼んだ? 海って呼んだ?」
俺は慌てて下着を身に着け、ニヤけた顔を覗かせた。
彼女が俺の携帯を持って来て押し付けてくる。
「ボ……ボタン押しちゃった……っ!」
「はぁ〜?」
彼女はかなり慌てている。
柴田さんが確認もせずに怒鳴り付けたのかもしれない。
柴田さんの怒鳴り声を初めて聞いた人は間違いなく驚き、怖いと感じる。
それだけの気迫というか勢いがあるのだ。
俺は慣れているけれど。
「おはよう柴田さん」
『昨日マンションに帰らなかったわね?! あんた今どこにいるのよ?!』
「ん? 今? 大好きな人の部屋」
彼女のところだよ。
嘘みたいでしょ?
答える顔が無意識に綻ぶ。
『はい? 大好きな人って……あの、彩さんって人? どうやって……って今はそんな話してる時間ないの! 何で連絡しなかったのよ?!』
「ごめんねぇ、昨日携帯の電源切れちゃってたでしょ?」
『昨日買うって言ってたじゃない、そんな物1つ買えなかったの?』
そんな物1つって……分からなかったわけではないのだが。
「……うん」
『だから買おうかって訊いてあげたのに……あら? じゃ、今はどうやって……?』
「大好きな人に携帯も俺も充電させてもらったから大丈夫だよ」
『あぁそう。あんたも携帯も、ね……まったく手が早いんだから……あんた芸能人って自覚なさ過ぎるわよ。で? 今どこにいるの? 住所教えて、迎えに行くから』
「今ここはね……彩さんここの住所は?」
「はい……?!」
彼女が大きく肩を震わせる。
「迎えが来るんだけど住所が分らないんだよね」
「新宿区下落合○-△-□」
「だって。じゃ、待ってるね」
俺はさっさと電話を切った。
「彩さん、相当パニクってる?」
彼女の動揺してる姿がおかしくてクスクスと笑った。
「今までで最悪の朝だわ……」
最悪……か。
「俺は最高の朝だけどなぁ」
携帯をカウンターに乗せて彼女を後ろから抱きしめた。
「ちょっ……!」
「彩さん……大好き」
彼女の髪に顔を埋めながら囁く。
「かっ……からかわないでっ」
「からかってなんかないよ。俺は彩さんだから抱いたんだ。他の女なら家にも行かなかったし抱きもしない。それどころか助けだって求めなかったよ」
そう、他の女だったら絶対にしない。
他の女だったら、とにかく撒いてから祥平の店に逃げ込んでいただろう。
彩さんだったから頭をフル回転させて部屋まで上がり込んだし抱いたのだ。
この2年間、彩さんだけを見てきた。
彩さん以外の女を抱く気にもならなかった。
「さっさとシャワー浴びて帰る用意しなさい」
「嫌だ」
彼女が困った顔をしていた。
やっぱり表情の豊かな人だな……。
「彩さん、もう1回抱きたい」
「嫌。言ったでしょ、いい加減に仕事をする男は嫌いよ」
「……わかった。ちゃんと仕事する、だから今晩も抱かせて?」
今日は明日の夜までスケジュールが空かないので本当は来れないけれど、彼女の反応を見たくてつい言ってしまった。
唇を彼女の項に押し付ける。
「あ……っ」
「彩さんの声……エッチ」
駄目だ……欲情してしまう。
「いい加減にしなさい……っ!」
彼女が俺の足を踏みつけた。
「痛……っ!」
「さっさとシャワー行け!」
彼女は力が抜けた俺の腕から逃げ出してキッチンに向かう。
正直、ほっとした。
彼女が流される人なら多分ベッドに向かってしまっただろう。
いくらだって抱きたいと思ってしまうから。
抱いても抱いても抱き足りないのだ。
「彩さん可愛い」
「早く行きなさいっ!」
俺に布巾を投げつけながら彼女が怒鳴る。
真っ赤な顔をしていて可愛かった。
俺は浴室に向かいながら笑った。
やっぱり彼女は最高だ。
俺が風呂から出てくると彼女が風呂へ向かう。
一緒に入りたかったな……。
そんな事を考えていた。
絶対に嫌がられるだろうけれど。
ふと、顔を上げると彼女の携帯電話が目に入った。
彼女に訊いても絶対に教えてくれないだろう。
俺は彼女の携帯番号とメールアドレスを自分の携帯に登録し、彼女の携帯には俺の番号とメールアドレスを登録した。
そして何事もなかったように彼女が風呂から出てくるまでテーブルの前に座って待っていた。
「先に食べればよかったのに」
風呂上りの彼女が呆れたように俺を見る。
「彩さんと食べたかったから」
せっかく一緒にいるのに1人でなど食べたくなかった。
「珈琲飲む?」
「うん、ミルク入れて」
「自分でやんなさいよ」
「彩さん冷たい……昨日あんな事したのに……」
彼女の顔が少しだけ赤みを帯びる。
「馬っ鹿じゃないの? 1回寝たくらいで調子に乗らないで」
平静を装う彼女もまた可愛い。
こんな事を言っているけれど、実際の男性経験は少なさそうだ。
この2年半はいないだろうけれど、どの位付き合っていないのか……少々気になる。
昨日の様子から考えると、結構長い間フリーなのだと思うけれど口にすれば張り倒されそうだ。
彼女はカップとミルクを俺の前に置いてカウンターの椅子に腰を下ろした。
「何でそんなに離れてるのさ?」
「近寄りたくないから」
俺は黴菌?
寂しい……。
もっとイチャイチャしながら食べたいのに……まぁ、無理か。
朝のニュースを見ながら会話もなく食事をしているとインターホンが鳴った。
柴田さんだろうな……。
「これ、知り合い?」
彼女が俺に尋ねる。
インターホンには柴田さんの姿が映っていた。
「うん、柴田さん。マネージャーだよ」
「何で私の部屋番号知ってるの?」
「彼女、勘がいいんだ」
柴田さんは彼女のフルネームを知っているのだからポストを見ればすぐに分かる。
彼女は呆れた顔をしながら俺の言葉を聞き流した。
俺に訊いても無駄だと思ったのだろう。
嘘は言っていないけれど。
「今開けますね」
彼女が溜め息混じりにエントランスのロックを解除する。
暫くして玄関のインターホンが鳴った。
彼女は玄関に向かい、鍵を開ける音が廊下に響く。
「海……いますよね?」
柴田さんの怒りを含んだ声が聞こえた。
「はい。さっさと撤去して下さい」
撤去って……酷いなぁ。
俺って粗大ゴミ?
「海、あんた何考えてるの?!」
勝手に上がり込んで来た柴田さんが俺を怒鳴りつける。
「彩さん……なんで入れちゃうのさ?」
外で待っててもらえばよかったのに……。
「さっさと出て行って欲しいから」
柴田さんが不思議そうに彼女を見た。
「あなたが五十嵐……彩さん? 同居人さんとかじゃなくて?」
なんで同居人?
意味が分からない。
「……そうですけど? 私は1人暮らしです。ルームシェアはしてません」
柴田さんが俺に視線を戻す。
「あんた……」
今飲み込んだ言葉がすっごく気になる。
車に行ったら絶対に訊いてやる。
「お迎えも来たんだし、さっさと帰りなさい。さようなら」
彼女は俺の荷物を纏めて柴田さんに手渡した。
「この子の荷物はこれで全部です」
あっさりと追い出そうとする彼女が分からない。
昨日あんなに何度も愛し合ったのに……。
彼女も俺を求めたはずなのに……。
「彩さぁん……」
「情けない声出さない! そういう男は嫌われるわよ」
彼女は俺の背中を押しながら玄関へ向かう。
「ご迷惑をお掛けしました」
「2度と目を離さないようにお願いします」
柴田さんは苦笑しながら彼女に頭を下げる。
躊躇いもなく閉められた玄関の扉を俺はじっと見つめた。
「海……あの子が彩さんなの?」
柴田さんの声に振り返ってエレベーターに向かう。
「そうだよ。五十嵐 彩さん、大好きな女(ひと)だよ」
柴田さんは不思議そうに首を傾げる。
「イマイチ分からないわ」
「何がさ? 可愛かったでしょ?」
「普通」
うぉっ……言い切られてしまった。
「さっき言い掛けたのって何だったのさ?」
話題を変えた。
あまりにも気まずいからだ。
彩さんの部屋で言い掛けた言葉が何だったのか気になっていたし。
「あぁ……あれね。別に……」
「あんた……で止めたでしょ? 何が言いたかったのさ? すっごく気になるんだけど?」
「こんな子が好きなの? って訊こうかと思ったんだけど本人目の前だからやめたのよ」
こんな子って……あんまりだよ柴田さん。
「俺、本当に彼女が……彩さんが好きだよ。だから抱いた」
「彼女の何に惹かれたの?」
「空気? 彼女と同じ空間にいると落ち着くんだ」
「理解できないわね」
「柴田さんにもそのうち分かるよ、きっと」
彼女が感じさせてくれる安心感や言葉は魔法なのだ。
今までどれだけ救われてきたか分からない……。
いつか、柴田さんならば分かってくれると思う。
俺は緩む頬を押さえながら扉の開いたエレベーターに乗り込んだ。
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