大好きな彼女
― 6 ―
月曜日の朝。
先日彼女の携帯から電話番号とメールアドレスを拝借した俺は、撮影の合間にメールを送ってみた。
『おはよう彩さん。今日も仕事頑張ってね。俺も頑張るから♪ 今晩行ってもいい?』
彼女は麻薬だ。
1度味わってしまったら最後、彼女を欲しくて仕方なくなる。
しっかり禁断症状が出ている。
まぁ、2年以上女性を抱いてなかったのだから欲求不満というのは確かなのだが。
今頃彼女は俺の名前が表示されて驚いてるだろう。
返事はくるだろうか?
ソワソワしながら待っていると携帯がメールを受信した。
ドキドキしながら受信ボックスを開くと彼女からのメール。
『二度と来るな』
一言ですか……。
それも寂しい一言。
「海……何、百面相してんのよ?」
柴田さんが呆れ顔で俺を見ていた。
「彩さんにメールしたんだけど……“二度と来るな”だって」
柴田さんは大きな声で笑い出した。
「退屈せずに済みそうね」
意味不明……っていうか知りたくない。
ただの厭味という気もするけれど……。
その日は、柴田さんのお蔭で夜7時には店に行く事が出来た。
「お、海か。悪い、今日まだあそこの座敷空いてないんだ」
「カウンターでいいよ」
俺は裏口に近いカウンターの端に座ってビールと簡単なおつまみを注文した。
厨房に近いこの席は従業員が休憩する事もあってあまり目立たない。
「そういえばこの間大丈夫だったのか? お客がこの近所にお前がいたって言ってたから気になってたんだ」
「あ……この間ね……うん、大丈夫。逃げ切ったよ」
彼女との事を話すのを俺は躊躇った。
まだ、彼女と付き合い始めたというわけではない。
あまりにも中途半端な関係で話せなかった。
「こんばんは」
顔馴染みの店員に挨拶しながら彼女が店に入って来る。
そして馴染みの店員に案内されていつも座る席へと向かう。
相変わらず会社の話ばかり。
会話に出てくる人物など分かるわけもないし、仕事の内容も理解できない。
分かる事はたった1つ。
彼女が楽しそうに話してるという事だけ。
「そういえば彩ちゃん、海外研修の話どうした?」
海外研修……?
「あぁ……まだ保留。今忙しい時期だし……ってもう締め切りよね、ちゃんと返事しなきゃね」
「彩ちゃんがいなくなったら俺ら仕事できないよ。寂し過ぎて」
「大袈裟よ」
「伊集院君だって行くんでしょ?」
「彩ちゃんが行かないなら考えるよ」
「駄目じゃん」
彼女の会社の人間はおかしい。
なんで彼女が基準なのさ?
なんで皆平然と彼女を口説くのだろう?
飲みに来るメンバーはいつも同じ。
こいつ等も皆、彼女を狙っているのか?
「海……お前恐いぞ?」
祥平が呆れた顔で俺を見ていた。
「なんで皆あんなふうに彼女を口説くんだろ?」
「皆彩ちゃんが好きだからに決まってるだろ」
「そのわりに軽いよね」
真剣に口説いている感じがしない。
「そりゃ会社が同じなんだから仕方ないんじゃないか?」
「そんなもん?」
「そんなもんだよ。振った男と同じ職場にいたら仕事やりにくいだろ」
俺は振った女と仕事しても気まずくないけどなぁ……。
仕事は仕事、プライベートはプライベートでしょ?
……あ、そうでもないか。
この店に来れなくて不機嫌だった事もあったな……。
メチャクチャ公私混同じゃん俺。
でも、やりにくくはなかった。
腹は立ったけれど。
チラチラと彼女を見ていたら、彼女がこっちを向いた。
俺は慌てて視線を逸らし俯く。
気付かれたかもしれない。
しかし、海外研修という言葉が凄く気になる。
俺は暫く祥平と話して9時前に店を出た。
そして、柴田さんを電話で呼んで車の中で彼女が出てくるのを待つ。
先月から車が変わってアル●ァードになった。
前の車よりも少しだけ広い気がする。
相変わらず後部座席にはカーテンが付けられていた。
芸能人用のオプションというわけではないようだ。
一般の人達にカーテンが必要なのかは分からない。
今考えても欲求不満の頭の中はいやらしい想像しかできない。
考えるのはやめておこう……。
「海……ストーカーみたいよ?」
柴田さんがカーテン越しに話し掛けてきた。
「どうしても彼女に確認したい事があるんだ」
柴田さんの大きな溜め息が聞こえる。
「頼むから警察沙汰にはならないようにしてよ。洒落にならないから」
「分かってる、彩さんはそんな人じゃないから大丈夫だよ」
そう言いながらも付き合ってくれる柴田さんは本当に優しい人だ。
「柴田さんって姉さんみたいだよね」
「お母さんじゃないの?」
「姉さんだよ。柴田さんだって知ってるでしょ、俺の家族構成」
「そうね。……あ、彼女じゃない?」
柴田さんがミラー越しに彼女を見つけたようだ。
俺もカーテンを捲って彼女を確認した。
間違いない。
「ちょっと行ってくるね、待ってて」
俺は車を降りて会社の人間と別れて駅に向かう彼女の許に向かった。
「……何してんのよ?」
さっき店で気付いたらしい彼女は驚く事なく俺を見上げた。
「彩さん、海外行くの?」
「は?」
彼女は怪訝そうな顔で首を傾げる。
「さっき男達と話してたでしょ?」
「あぁ……海外研修の話? ……っていうか何で聞いてんのよ?」
会いたかったから店に行っただけだし、座っていたら聞こえるのだから仕方がない。
外で話すという事は不特定多数の人に聞かれるという事なのだから。
「どうせ今日は飲みに行くんじゃないかなって思って先回りしてた」
月・水・金に店に来るというのは祥平から聞いていたし。
「柴田さんは?」
「そこにいる」
俺は顎で車の場所を知らせた。
「送るよ」
逃げられる前に彼女の腕を掴んだ。
「ちょっと待ちなさいよ。私は1人で大丈夫、放して」
放すわけないでしょ。
さっきの話も答えてもらっていないし。
俺は彼女を半ば強制的に車に連れ込んだ。
「どういう事なんでしょうかねぇ?」
彼女はハンドルを握る柴田さんをカーテン越しに睨み付ける。
「すみません、躾がなってなくて」
「もう少しちゃんとしたトレーナーに預けてでも調教した方がいいと思いますよ?」
俺はダメ犬……?
調教?
……あ、駄目だ。
どうしてもいやらしい想像しか出来ない……。
「彩さん、肩貸して。眠い」
彼女の匂いに安堵感が広がる。
俺は彼女の肩に頭を乗せて瞳を閉じた。
「ちょっと……!」
「甘えさせてあげてくれない? 土曜日からずっと仕事で、移動中の仮眠程度しか出来てないの」
柴田さんと彼女の会話が遠くなっていく。
2人の声に安心した俺はあっという間に眠ってしまったようだ。
「海! 起きなさい! 彩さん帰っちゃうわよ!」
柴田さんの声で俺は飛び起きた。
「彩さん?!」
「もうマンションに入って行ったわよ! 明日8時に迎えに来るからね!」
「分かった!」
柴田さんの言葉に答えて俺は車を飛び降りた。
エントランスのロックを解除してエレベーターのボタンを押した彼女を後ろから抱きしめる。
「彩さん……」
「柴田さんに持って帰れって言ったのに……」
持って帰れって……俺は物じゃないよ。
「俺……やっと仕事から解放されたんだよ? 彩さんに会いたかった」
「金曜日に会ったでしょ?」
「駄目……彩さんパワーが切れちゃって仕事にならない」
柴田さんの乗った車は俺が降りるとそのまま走り去った。
彼女はそれに気付き、大きな溜め息を吐いたが、帰れとは言わなかった。
それでも……。
「迷惑なんだけど?」
部屋に入った瞬間彼女が言った。
戸惑いも迷いも遠慮もなくズバッとはっきりと。
「そう言わないでよ……」
なんでこうも彼女はズバッとダイレクトな言葉を吐くのだろう。
俺だってショック受けるんだよ?
彼女は俺の顔を見上げるとクスクスと笑った。
「あ、彩さん笑った」
初めて俺だけに見せてくれた笑顔……。
「そりゃ笑う事もあるし怒る事だってあるわよ。人間だもの」
彼女はリビングのソファベッドに鞄を投げてキッチンへと向かった。
「何飲むの? ビール? 珈琲?」
「彩さんと一緒」
「じゃ、珈琲ね」
「え〜っ、ビールにしようよ」
「私と一緒って言ったじゃない」
言ったけれど……。
でも、一緒に飲みたい。
彼女は珈琲メーカーのスイッチを入れる事なく、冷蔵庫からビールを2本取り出して1本を俺にくれた。
「やっぱ彩さん優しいね」
こういうさり気ない優しさが嬉しい。
初めて彼女と一緒に酒を飲める……。
夢だったんだよね、ずっと。
「ねぇ、普通芸能人って恋愛は事務所が許さないんじゃないの?」
急に彼女が尋ねてきた。
確かに交際について煩い事務所が多いのは確かだ。
「普通はね。でも俺の場合はオッケーなの」
「なんでよ?」
「だって今までたっくさん迷惑掛けてるから。社長が真面目な人間と恋愛して、仕事をちゃんとやってくれるならいいよって言ってくれてるし」
うちの社長は結構寛大だ。
迷惑を掛ける事も多少あったけれど、社長は一方的に怒ったりはしなかった。
俺も社長の命令は大体従っているし、ガミガミ言われる覚えはないのだが。
あまりプライベートな事には干渉してこないので気楽だし、基本的には柴田さんと連絡がつくようにしておけば何も言わない。
だからこの2年、彼女の話をずっと柴田さんに聞かせてきた。
どれだけ彼女が好きなのかを分かってもらいたかったからだ。
柴田さんは俺の味方でいてくれると信じていたから。
柴田さんが味方でいてくれるから俺は今ここにいられるのだ。
「彩さん、好きだよ」
本当に大好きなんだ。
信じてよ……。
彼女を見つめていて、さっきの話を思い出す。
危うく忘れてしまうところだった。
「で? 彩さん。さっきの話なんだけど、海外に行くってどういう事?」
「海外に研修に行かないかって上司に言われてるの」
「ずっと? 永住?」
そんなの嫌だ。
「2週間くらいの予定」
「嫌だ、駄目」
行かないで欲しい。
「いつから彼氏になったのよ? 束縛する男は嫌いよ?」
束縛する男は嫌い―――そんな事を言われたらもう何も言えない……。
「……彩さんは仕事好き?」
「好きよ? 楽しいもの」
本当に楽しそうな顔をして彼女は答えた。
躊躇なく即答できる彼女が羨ましい。
そうだよね、あの店でも楽しそうに会社の話してるもんね。
「そっか……彩さんは仕事好きなんだ……」
「あんたはどうなのよ?」
「分かんない。中学の時スカウトされて、モデルやって……5年前からはドラマとか出てるけど、何か流されてるって感じで。正直好きとか嫌いとか考えた事ない」
3年前から考えているけれど、今でも分からない。
この仕事が合っているのか、この仕事が好きなのか……。
「でも、撮影終わった時とか充実感みたいなのない?」
「多少はあるよ」
作品が完成するのは嬉しいと思う。
出演した作品や自分が評価されれば悪い気はしない。
それでも、それが好きという事なのかは疑問だ。
「大事なのはそういう気持ちじゃない? 頑張って成果を得ると結構気持ちいいと思うし、また頑張ろうって気にならない?」
「何となくは……」
やっぱり彩さんだ……。
確かに、いい監督に出会って作品が完成した時の満足感は言葉に出来ないくらいに幸せだ。
その監督のためならまた頑張りたいと思うし、難しい要求にも応えたくなる。
でも、それはいい監督に出会った時限定だ。
それでもいいのかな……?
それでも好きだと言えるのかな?
「好き嫌いを考える暇もないくらい忙しいのね」
「まぁね……ここ半年1日丸々オフなんてないしね……」
“大事なのは気持ち”か……。
彼女の言葉で少しだけ心が軽くなった気がする。
やっぱり彩さんの言葉は魔法だ。
さり気なく心を軽くしてくれる言葉をくれる彼女が愛おしくて堪らない。
俺は彼女を抱きしめた。
「彩さん……」
好きだ。
大好きだ。
そんな言葉では全然足りない。
……愛している。
「放して。ほら、飲めないじゃない」
彼女はビールを持ったまま、空いている右手で俺の腕を軽く叩く。
「彩さん珈琲の匂いがする、俺にもその匂い分けて……?」
珈琲など飲んでいないのに、どうしてだろう?
一瞬考えた。
そういえば祥平が、彼女は珈琲を飲んでから店を出ると言っていたっけ。
納得。
俺は彼女の唇を塞いだ。
彼女の手から缶を抜き取ってテーブルに置き、何度も何度も彼女に口付けた。
彼女の手が俺の服を握り締めた時、我慢は限界を迎えた。
ソファベッドで彼女を抱き、ベッドに抱えて行って再び抱いた。
どうしたら本気だと分かってくれるのだろう?
彼女はどんな気持ちで俺に抱かれているのだろう?
疲れて眠る彼女の寝顔を見ながら考えていた。
本気だからこそ気になるのだ。
今までは女の気持ちなど考えた事もなかった。
考えようとも思わなかった。
本気になった事などなかったのから当然かもしれないが、最低な男だ。
こんなに好きなのに、気持ちの伝え方が分からない。
今まで伝えたくなるような気持ちを抱いた事などなかったから、その伝え方を俺は知らないのだ。
どうしたらきちんと伝わるのだろう?
俺がどれだけ貴女を想っているのか、どれほど貴女を欲しているのか。
ねぇ、教えてよ。
「どうしたら信じてくれるのさ、彩さん……」
俺は彼女の寝顔にそっと口付け、彼女のぬくもりを感じながら目を閉じた。
彩さん……俺は本当に貴女が好きなんだ、愛してるんだ―――――。
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