大好きな彼女
― 7 ―
翌朝、目を覚ますと可愛い顔をして眠る彼女が腕の中にいた。
俺はただ彼女を見つめた。
一糸纏わぬ姿で眠る彼女の体温を感じ、寝顔を見つめて現実なのだと実感する。
暫く眺めていると彼女が目を覚ました。
「彩さん……好きだよ」
彼女の顔が心なしか赤くなる。
可愛い……。
「今日仕事は?」
おはようもなく仕事の話?
キスするタイミング逃しちゃったじゃん……。
「あるよ、10時から撮影で28時まで」
「28時って何……?」
「あぁ……翌日の朝4時までって事」
馴染みのない言葉だよね、1日24時間だし。
「私仕事行かなきゃならないんだけど?」
柴田さんが来るのは8時。
多分彼女が仕事に出掛けた後だろう。
「鍵ちょうだい。掛けて行くから」
「はい?」
聞こえなかったのかな?
「鍵ちょうだい。掛けて行くから」
「鍵渡したら出入り自由になっちゃうじゃない」
なるほど……そんな事考えていなかったな。
いい事を教えてくれてありがとう、彩さん。
「駄目……?」
出入り自由か……そうかそうか、なるほどね。
「彩さん……俺、本気だよ? 彩さんが好きだ」
だからそんなに警戒しないでよ。
信じてよ……。
俺は何度も何度も唇を重ねた。
「……俺ずっと前から彩さんを見てたんだ。彩さんしか見えなかった。彩さんの笑顔を見て俺頑張れてたんだ。らしくもなく片想いしちゃってさ」
自分で言っていて恥ずかしい。
何故こんな事をベラベラ話しているのだろう。
今の俺って絶対に凄くカッコ悪い。
情けなくて凹みそうだ。
「大袈裟」
「本当だよ。だから、彩さん抱いてるなんて夢みたいだ」
正直、まだ信じられない。
夢でも幸せだが現実なのだ。
彼女は眼鏡を掛けると俺の腕をすり抜けてベッドから抜け出した。
「彩さん?」
彼女は振り返る事なく寝室を出て行った。
「信じてよ彩さん……本当に好きなんだよ、愛してるんだ」
彼女の体温が残ったシーツに触れながら小さく呟いた。
彼女がシャワーを浴びた後、俺もシャワーを浴びた。
リビングに戻ると既に朝食が並んでいた。
「彩さん何時に出るの?」
「7時。あんたは?」
彼女は既にスーツを着ている。
「8時に柴田さんが迎えに来てくれる」
彼女は大きな溜め息を吐いた。
その溜め息の意味は……?
俺が首を傾げると、彼女が鍵を差し出した。
「8時まで部屋に居ると遅刻しちゃうから」
彼女の部屋の鍵だ。
俺は笑顔で頷いた。
気のせいか彼女の顔が暗くなった気がする。
そんなに鍵渡すの嫌だったのかな……?
食事を終えて彼女が化粧を始めた。
「彩さん」
「何?」
彼女が口紅を持った瞬間に声を掛け、後ろから抱きしめて首筋にキスをした。
「あっ……ちょっ……?!」
彼女は真っ赤な顔をして慌てていた。
「好きだよ彩さん。大好き」
彼女の耳元で囁く。
「仕事行かなきゃいけないんだけどっ?!」
「分かってるよ。だから口紅待って」
俺は彼女の唇を塞いだ。
「なん……っ!」
角度を変えながら何度も繰り返し彼女に口付ける。
「こんな事したら口紅落ちちゃうでしょ?」
真っ赤な顔をした彼女が俺の腕を遠慮なく抓った。
顔を殴らないのは芸能人だと分かってるからだろう。
本当にどこまでも冷静なんだね。
一喜一憂するのは俺だけなのかな……。
テレビが7時を告げると彼女は鞄を持って玄関に向かった。
「行ってらっしゃい彩さん」
こんな言葉を投げるのは久しぶりだ。
「行って……きます」
彩さんも同じらしい。
ちょっと恥ずかしそうに部屋を出て行った。
可愛い……。
彼女を見送ってリビングに戻った俺はテレビを眺めながら7時半になるのを待つ。
くだらない芸能ニュースを見て鼻で笑う。
1人の時間はどうして進むのが遅いのだろう?
食器を洗ったり家具の少ないリビングに掃除機を掛けて時間を潰し、7時半なったのを確認した俺は携帯電話を開いて柴田さんに電話を掛けた。
「柴田さんおはよう。彩さん会社行っちゃって暇になっちゃった。どうせ近くにいるんでしょ?」
『暇だったら下りてきなさい。すぐ行くから』
「はぁい」
柴田さんは大体30分前くらいには着いているのだ。
時間になるまでは絶対に俺の前に姿を見せないけれど、昔からそうなのだ。
俺は荷物を持って部屋を出た。
施錠したその鍵を見つめ、笑みが漏れる。
彩さんの部屋の鍵。
彼女と繋がるアイテムが増えて頬の筋肉が緩む。
大好きだよ、彩さん……。
エントランスで待っていた柴田さんは、出て来た俺を見て顔を引き攣らせた。
朝からスタジオでの撮影。
今日は1日缶詰らしい。
俺はドライ(演技確認)を終えて控え室に戻って来ていた。
今、スタジオでは撮影スタッフが調整をしている。
1日にこんな事を何度も繰り返す。
こういう中途半端な空き時間は嫌いだ。
テレビドラマは順を追って撮影する映画とは違って、和やかなシーンの後に緊迫したシーンを撮る事も当たり前だから、感情の入れ替えも必要だし大事な時間だとは思うのだが、時間を持て余して気が抜けてしまう。
「望月さ〜ん、リハいいですか?」
「あ、はい。今行きます」
今日は何回リハするのかな。
何シーン撮れるだろう。
スタジオの中にいると時間の感覚がなくなる。
俺はあまり共演者と話をしないので余計に長く感じてしまうのだ。
「望月君、機嫌悪いの?」
またか……。
共演者の……特に同年代の女はすぐにこうやって近付いてくる。
「別に」
「あんま話してくれないじゃない?」
「話すことないじゃん。集中したいから話し掛けて欲しくないし」
俺はスタジオセットの脇にある椅子に腰を下ろした。
「柴田さん、今何時?」
「午後8時32分」
彼女は何をしているのだろう?
今日は飲みに行かない日のはずだ。
家で寛いでいるのかな……?
後でメールをしてみよう。
「海、もう少し愛想良く出来ない?」
「彩さん相手ならいくらでも笑えるんだけどね」
こいつ等は皆卑しい計算をして近付いて来るんだ。
そんな奴等に何で愛想良く出来るのさ?
「大御所相手にその態度はやめてよね」
柴田さんは溜め息を吐きながら台本で俺の頭をポンポンと何度も叩いた。
さすがにそれはしないよ。
『お疲れ様彩さん。俺はまだまだ仕事が終わりません。深夜ロケも続きます。でも、彩さんに充電してもらったから頑張るね!』
午後10時を回った頃再びやって来た待機時間。
俺は控え室から彼女にメールを送った。
彼女からメールが返ってくる事はほとんどない。
それでもよかった。
彼女がメールを読んでくれるだけで満足だった。
近付く事も出来ないと思っていた女(ひと)。
お守りのように衣装のポケットに忍ばせた彼女の部屋の鍵。
「本当に不思議。今日の海、顔の締まりがないんだもの。彼女と一緒にいるだけでそんなにご機嫌になるとは思わなかったわ」
柴田さんは相変わらず彩さんの魅力を理解していない。
「俺さ……自分が仕事好きなのかずっと分からなかったんだよね。考える時間もなかったし、考える必要もないと思ってた。でも、何年か前から急に考え始めちゃったんだ。この仕事が自分に合ってるか……好きなのか……続けていこうか辞めようかって……さ」
親しい友達が離れていって、名前も忘れたような奴が友達面するようになって……大事な物を手放してまでやりたい仕事なのか……。
流されてるだけのような気さえしていた。
「そんな事考えてる頃に彩さんを見掛けたんだ。会社仲間といつも楽しんでて、仲間が落ち込んでたら励まして、喜んでたら自分の事のように一緒に喜んでた。彩さんが仲間を励ましてる時の言葉が俺の心を軽くしてくれた」
『人ってジグソーパズルみたいなものじゃないかしら。ピースごとに嵌る場所決まってるでしょ? 他のもの嵌め込んでも完成しないじゃない。今の伊集院君のいる場所は伊集院君だけのもので、誰も代わることなんて出来ないのよ』
「その人のいる場所はその人だけのもので、他の誰にも代わる事は出来ないって彼女が言ったんだ」
「そうね、海のポジションは誰にも代われないわ。海だから意味があるのよ、他の誰かじゃ駄目なの。確かに本当の姿じゃないかもしれないけど、クールな二枚目の仮面を被ってる方が人見知りの海には合ってると思う。誰にでも愛嬌振り撒くのもしんどいだろうしね」
事務所はそこまで考えてくれていたの?
俺は顔を上げて柴田さんを見上げた。
「俺……この仕事合ってると思う?」
「えぇ、海は俳優向きだと思うわ」
「仲の良かった友達が遠くなってくんだ。連絡もくれなくなった」
「海から連絡したらいいじゃない。友達なら遠慮なんて要らないでしょ?」
なんで俺、1人で悩んでたんだろう……。
受身じゃ駄目なんだね。
こっちから動こうなんて考えてもいなかった。
「そっか、こっちから連絡すればいいんだ……」
柴田さんが微笑んだ。
「そんな事で悩んでるなんて思わなかったわ」
「簡単な事なんだね。彩さんの言ってた意味が分かったよ」
本当に“大事なのは気持ち”なんだね。
やっと彼女の言葉の意味をちゃんと理解できた気がする。
「俺ね、いい監督に出会えた時って凄く頑張れるんだ。また一緒にやりたいって思う。それって仕事が好きって事なのかな?」
「偏ってる気がするけどね」
俺の言葉に柴田さんは苦笑していた。
深夜ロケで、彩さんに会えない日が続いた。
そしてメールをしてから9日目の木曜日。
この日の仕事は22時で終わり、翌日は12時からの仕事。
彼女の部屋に行ってもいいかな?
俺は携帯を開き、彼女にメールを送った。
『今日、これから彩さんの部屋に行ってもいい?』
さすがに返事が来るだろう。
来なかったら行ってしまおうかな……。
そんな事を考えていたら携帯が震えた。
やはり彼女からだった。
『今日は忙しいから無理。駄目』
断られてしまった……。
それも2つも拒絶する文字が並んでいる。
コレは本当に無理なのだろう。
俺は溜め息を吐いた。
確かに彼女も仕事しているし、忙しい事もあるだろう。
俺に予定を合わせるなんて事は絶対にありえない。
でも、もう9日も会っていない。
好きなのは俺だけ……?
会いたいと思うのは俺だけなの?
「何死にそうな顔してんのよ?」
柴田さんが呆れた顔をしていた。
「だって10日以上彩さんに会ってないんだよ?」
「今までだって何ヶ月も会えない事あったじゃない」
あったけれど……。
平気だったのは彩さんが俺の存在を知らなかったからだ。
だから機嫌が悪くなる程度で済んでいたのだ。
「彩さんに会いたいな……」
もう13日間彩さんの声も聞いてないし姿も見てない。
「今日行ってみたら? 明日は15時入りだから充分時間あるでしょ?」
柴田さんは大きな溜め息を吐いた。
そっか……。
今日行ってもいいかな?
メールしてみよう。
『会いに行ってもいい?』
返信がなかったら行ってみよう。
彼女がOKメールを送ってくれるなんてなさそうだし。
夜10時半を過ぎた頃、やっと撮影が終了した。
着替えを済ませ、セカンドバッグの中の携帯を確認する。
彼女からの返信はない。
これはOKという事だろう。
俺は上機嫌で彼女のマンションまで送ってもらった。
「変ね……彼女の部屋電気点いてないみたい……」
柴田さんが呟いた。
「……え? だってもう11時半だよ? 帰ってなきゃおかしい」
「でも点いてないわ」
柴田さんは車を停めてエンジンを切った。
「海、鍵持ってるんでしょ?」
「うん、持ってる」
「来なさい」
柴田さんは運転席を出てエントランスに向かった。
俺も慌てて柴田さんの後を追う。
鍵を開けて中に入ると、部屋は真っ暗だった。
「彩さん?」
声を掛けてみる。
返事はない。
柴田さんが電気を点けた。
「綺麗に片付いてるわね」
柴田さんが呟く。
俺は彼女の携帯にメールを送った。
『彩さん、今どこにいるの?』
近くで携帯の着信音が聞こえる。
俺のものでも柴田さんのものでもない音。
対面キッチンのカウンターの上で携帯は鳴っていた。
彼女の携帯だ。
「なんで……ここにあるのさ?」
携帯はホルダー型の充電器に差し込まれていた。
彩さん……どこにいるのさ?
「柴田さん……彩さんどうしちゃったんだろ? どこ行っちゃったんだろ?」
「この時間じゃ会社には誰もいないだろうし……とにかく会社名調べなきゃ。何か社名の書かれた物探して」
柴田さんに言われるまま俺は社名の書かれた物を探した。
携帯を置いてどこに行っちゃったのさ?
もしかしたら何か帰れない事情があるのかもしれない。
事故?
誘拐?
強姦?
殺人?
考えれば考えるほど嫌な事しか浮かばない。
ねぇ、貴女は今どこにいるのさ……?
俺は彼女の手掛かりをただ探す事しか出来ない。
心配でも捜しに行く事も出来ない。
芸能人は無力だ。
願う事しか出来ないなんて……。
彩さん……どうか無事でいて――――――――。
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