大好きな彼女
― 9 ―
「海君、このお菓子あげるよ」
CM撮影中に製菓会社の社長さん自らダンボールにいっぱい入ったお菓子を持って来た。
「あ……ありがとうございます」
こんなに貰っても困るのだが……。
あまりお菓子類は食べないし。
「わたしも家内も娘も君の大ファンなんだ。CMを引き受けてくれて本当に嬉しかった。ありがとう」
社長さんはニッコリと微笑んで随分前の写真集を差し出してきた。
「これにサインしてくれないだろうか?」
10代の頃の初写真集……。
この頃から俺を見ていてくれたの?
少しだけ嬉しかった。
写真集にサインをして返すと、社長さんは嬉しそうに帰って行く。
その後姿を俺も暖かな気持ちで見送る。
「うわぁ……すごい量のお菓子ですね」
入れ替わるように入ってきた女性スタッフが箱を覗き込んで笑った。
「お菓子好きなの?」
何となく訊いてみた。
「基本的に女の人は好きじゃないですか? 私は大好きですよ」
彼女も食べるだろうか……?
お酒が好きなら煎餅とかの方がいいのかなぁ……?
俺は少し考えてから美術さんに頼んでお菓子をラッピングしてもらった。
せっかく貰ったが、でも俺は食べないし……彼女が好きならばプレゼントしてあげたいと思った。
全部スタッフに配ってしまうのは社長さんに悪いし。
これを見て彼女は笑ってくれるだろうか?
それとも馬鹿にしていると怒るだろうか?
「こんなものラッピングしてどうするんですか?」
美術さんは不思議そうに俺を見た。
「人にあげようと思って……ウケると思います?」
「人によって笑いのツボ違うからなぁ……ま、驚きはするでしょうけどね」
2つ同じように包んでもらった。
ピンクとブルーの箱を眺めながら俺は溜め息を吐いた。
やってもらったのはいいけれど……彼女は会ってくれるだろうか?
許してもらえなかったらコレはどうしよう?
隣に住んでる弟達にでもあげればいいのか……。
会ってもらえなかった時の事を考えている自分が嫌になる。
でも、やっぱり恐いのだ。
彼女に嫌われる事が。
彼女を失う事が……。
箱を眺めながら溜め息を吐く俺を柴田さんは呆れたように見ていた。
残ったお菓子はスタッフに配った。
どうやらここのスタッフは皆お菓子好きらしい。
それを物語るように撮影後には空のダンボールだけが控え室に転がっていた。
ついでならダンボール捨ててよね、空のダンボールなんて要らないんだからさ……。
撮影は思うように進まない。
原因は俺。
そんな事は分かっている。
撮影スタッフも俺のNGの多さに困惑している。
それでもどうする事も出来なかった。
マトモな演技も出来ないなんてプロ失格だ……。
自分のモニターチェックしながらそんな事ばかり考える。
当然、監督からOKは出ない。
雑誌のインタビューやメンズ雑誌の撮影も笑顔を出せないまま日にちだけが過ぎていく。
出てくるのは溜め息ばかり。
食欲もない。
俺はとうとう笑顔というものを忘れてしまったようだ。
感情まで麻痺し始めていた。
誰に何を言われても心は何も感じない。
自分に掛けられる声を他人事のように聞いている。
まるで喫茶店の店内に流れているBGMのようだ。
右から左に流れていくだけ。
彼女は今どんな気持ちでいるのだろう?
俺の片想いだというのは分かっていたはずなのに……。
彼女の事を考えるだけで胸が苦しくなる。
鼻の奥がツンとした。
薄っすらと視界が歪む。
俺の事など忘れてしまったかもしれない……。
偶然会っただけの芸能人というだけで終わってしまったのかもしれない。
そう思うと堪らなく哀しかった。
車の中で仮眠をしていた俺に柴田さんが声を掛けてきた。
「海、着いたわよ。降りて」
俺は重い瞼を持ち上げ、カーテンを捲った。
「柴田さん……?」
そこは新橋駅だった。
お願いした覚えはない。
「今日、彼女が来る日なんでしょ?」
そうだけど……。
俺は動けなかった。
彼女に嫌われている事を思い知らされるのが恐かった。
だから、ドアに手を掛ける事も出来ない。
「まったく……面倒臭い子ね」
柴田さんが溜め息を吐く。
今更でしょ。
長い付き合いで俺が面倒なオコサマだという事は分かっているはずだ。
改めて言うような事でもないと思う。
「海、1つだけ言っておくわね」
「何さ?」
俺は不機嫌に答える。
「彼女……彩さんはあんたの事嫌ってなんかないわよ」
……え?
「動く気になった?」
何を根拠にそんな言葉を吐いたのさ?
なんで俺を祥平の店に行かせようとするのさ?
今の弱った俺は単純に柴田さんの言葉を信じたいと思ってしまう。
情けないけれど、何かに縋りたい。
それが根拠のない無責任な言葉だとしても。
「ウジウジしてないで本人に会ってみなさい。その箱は彼女の部屋に届けておけばいいんでしょ?」
柴田さんはロックを解除して運転席脇のボタンでスライドドアを開けた。
これ以上この場に留まっていたら柴田さんのヒールが飛んできそうだ。
彼女のヒール蹴りは強烈なので勘弁願いたい。
「ここで待っててあげるから1時間半後連れて来なさい」
「青い包装紙は柴田さんの旦那さんにプレゼントだよ」
柴田さんを振り回してるお詫びの印。
俺は帽子を被って伊達眼鏡を掛けて久しぶりに新橋に降り立った。
歩き慣れた新橋の駅前。
いつものように裏口から入ると祥平が驚いた顔で俺を見た。
「突然来るなよ、驚くだろ」
「……ごめん、空いてる?」
「今片付けてる、ちょっと待ってろ」
祥平は店員になにやら指示をしていた。
「顔色悪いな。何かあったのか?」
祥平が俺の顔を見ながら苦笑した。
「色々あり過ぎて何から話していいのかも分かんないんだよね……」
「ま、無理には訊かないさ。話せるようになったら聞かせてくれ」
祥平はそう言って俺の頭を帽子越しにクシャクシャと撫でた。
祥平の言葉に胸が熱くなる。
俺は触れられた頭の天辺を触りながら溢れてくる涙を堪えて大きく深呼吸した。
座敷に向かう途中、いつもの席に視線を向けたが彼女の姿はない。
飲み仲間はいるのに……。
体調でも崩したのだろうか?
「今、席を外してるみたいだけど来てるよ」
俺の視線に気付いた祥平がそう言って微笑んだ。
その言葉にほっと胸を撫で下ろす。
座敷に入るといつものようにつまみとビールを注文した。
席を外して行く場所といったら1つしかない。
俺はトイレの前で彼女を待った。
何も考えずに。
少ししてトイレの扉が開き、彼女が現れた。
「……何?」
驚きながら彼女が俺を見上げる。
分かってたはずの俺も戸惑っていた。
何を話せばいいのだろう……?
冷たかった指先が温かくなっていく。
「久しぶり」
やっと出てきたのがその一言。
ドクンドクンと自分の速まった鼓動が耳の奥から聞こえてくる。
「そうね」
俯きがちに彼女も答える。
情けないけれど、続く言葉が出てこない。
「あんまり遅いと皆が心配するの、何か話があるなら後で聞くわ」
俺の前を通り過ぎようとした彼女の腕を掴んで抱きしめた。
心が……身体が満たされていく。
「なっ……?!」
「彩さん……会いたかった」
久しぶりに感じる彼女の体温と匂い……。
「後で話し聞くから。今はやめて、放して。人が来て困るのはあんたよ?」
彼女が俺の背中を軽く叩く。
俺は渋々と彼女を解放し、軽くキスを落として座敷に戻った。
襖を開けると翔平が胡坐を掻いて座っていた。
「海……お前、彩ちゃんと会ってるのか?」
祥平の言葉に肩が震える。
「なんでさ……?」
「今の見ちゃったから」
今の、と言ったら“今の”しかないだろう。
「俺の片想いだよ」
彼女の気持ちは分からない。
何も伝わってこない。
だから不安なのだ。
「そうは見えなかったけどな」
祥平まで分からない事を……。
「前に……この近辺で俺が追い掛けられた事あったじゃん?」
「あぁ……先月だっけ?」
「うん……あの時、彩さんに助けてもらったんだよ」
意味もなく箸でつまみを掻き混ぜながら告げた。
「すごい偶然だな」
「うん……最初で最後のチャンスだと思ったんだ」
彼女と話すチャンスなんかそう簡単にはやって来ない。
「馬鹿みたいに必死だった。このチャンスを逃したら、もう彼女とは話せないって思ったから」
祥平は黙って俺の話を聞いていた。
「彼女……海外研修の話、俺に話してくれなかったんだ……だから心配で会いに行った」
祥平は苦笑した。
「俺は聞いてたぞ。お前が俺に連絡してくれたらすぐに分かったのに」
俺には話さないのに祥平には話してたの?
「彩ちゃんは真面目な子だから、研修中は来れないってわざわざ言ってくれたんだ。実際にあの飲み仲間も来なかったしな」
祥平がいつもあの席をキープしてくれてるからか……。
真面目な彼女らしい。
「仕事の邪魔しないでって言われた……」
「ま、当然だろ。言わなかった彼女にも何か理由があったんだろうしな」
テーブルに肘をついて祥平が微笑む。
何故か意味深に見えて、聞こえて。
だけどきっと教えてはくれない。
ただ、分かった事は……やっぱり俺の行動は間違っていた、という事くらいだ。
俺は1時間半ほど祥平と話して店を出た。
柴田さんは駅前で待っていてくれた。
「彼女一緒じゃないの?」
「会社の人と一緒だから連れ出せないよ。ここで待つ」
「そ」
「少しだけ寝かせて」
「彩さんは捉まえるから安心して寝ときなさい」
柴田さんの言葉は心強い。
いつだって俺の味方で、いつだって俺を励ましてくれて、いつだって俺のために動いてくれる。
無条件に信用できる唯一の人。
俺は柴田さんの言葉に安心して目を閉じた。
車のクラクションの音が聞こえて薄らいだ意識を覚醒させる。
「こんばんは。送るから乗って」
柴田さんが声を掛けているのは彼女だろう。
いや、彼女しかいない。
「いえ、結構です」
「彩さん。話聞いてくれるんでしょ?」
彼女が断ったのを聞いて俺は口を開いた。
カーテンを少し捲って彼女の顔を見ると何だか困った顔をしている。
「彩さん乗って」
柴田さんの再度の声掛けに、彼女は渋々といった感じで助手席に乗り込んだ。
「なんで後ろに乗らないかなぁ……」
ま、乗ってくれただけで充分だけどさ。
彼女のマンションに向かう間、ラジオの音声だけが車内に流れていた。
彼女と同じ空間にいるせいで眠気も吹っ飛んだ。
だけど、俺も柴田さんも彼女も何も話さなかった。
車内に気まずい空気が流れる。
沈黙の時間は何時間も続いたように感じた。
「明日6時に迎えに来るわね」
マンションに到着してようやく柴田さんが口を開いた。
彼女は俺を無視するように車を降りてマンションに入って行く。
俺は慌てて彼女の後を追った。
エレベーターに乗り込むと、我慢できずに彼女を抱きしめた。
「彩さん、ごめん……仕事の邪魔とかするつもりなかったんだ。ただ……あのおっさんが彩さん口説き始めたからつい……」
何よりも仕事の邪魔をしてしまった事を謝りたかった。
彼女は仕事が好きだから。
だから、邪魔してしまった事を詫びたかった。
でも、ただ心配だっただけなのだ。
邪魔がしたかったわけではない、決して。
「まだ、怒ってる……?」
「怒ってる」
許してくれない?
駄目?
「それと、伊集院君がおっさんなら私はおばさんよ。彼は同級生(タメ)なの」
あの男と彩さんが同級生(タメ)だとは思わなかった。
あの男の方が絶対に年上だと思ったのだが……そんなの言い訳だ。
「ごめん……そんなつもりで言ったんじゃない」
エレベーターが部屋のある4階で止まる。
「ほら、離れなさい。歩けないじゃない」
彼女は俺を押し離して部屋に向かった。
部屋に入るとテーブルの上に綺麗にラッピングされた箱が置かれていた。
あの箱だ。
翔平の店で、鍵を貸せと言われなかったなぁ……と思ったが、いつの間にかスペアキーを作っていたからのようだ。
相変わらず侮れない人だ、柴田さんは。
俺のポケットには彩さんの部屋の鍵がちゃんと入っている。
撮影中に勝手に持ち出したのだろう。
まったく油断も隙もない……。
彼女も存在感のある箱に気が付いたようだ。
まぁ、ここまで存在感のある箱に気付かない方が驚くけれど。
「お詫びの印」
俺は彼女を背後から抱きしめた。
「物で釣る気?」
貴女はどうしていつも犬や物や魚に例えるのさ?
いい加減人間で例えて欲しいなぁ……。
人間に昇格したい。
……っていうか今のは彼女が魚なのか。
「釣られてくれるの?」
「あんた次第じゃない?」
俺……次第?
「可能性はあるの?」
嫌われてるんじゃないの?
「ゼロではないと思うけど?」
単純に……嬉しかった。
思わず彼女の首筋に唇を押し付ける。
「あっ……ちょっ……!」
「彩さん……大好き」
本当に大好きだよ、他の何も手に付かなくなるくらい……。
「鬱陶しい……離れて。シャワー行きたい」
鬱陶しいって……。
かなりの有効打だよ、彩さん。
ショックで腕の力が抜けた。
彼女は俺の腕から離れてキッチンに向かい、珈琲メーカーをセットしてスイッチを入れた。
「彩さんって珈琲好きだよね」
彼女はいつも飲んでいる。
俺はソファベッドに身体を投げて彼女を眼で追っていた。
「好きよ、1日中飲んでる」
「胃悪くするよ?」
「そこまで軟弱じゃないわ」
軟弱って……何か違う気がする。
「鍛えようがない箇所だと思うけど……」
そういうのは……胃弱とかは体質だと思う。
鍛えられるとは思えない。
内臓の鍛え方などあるのだろうか?
俺が知らないだけなのか?
「冷蔵庫にお茶もビールも入ってるから勝手に飲んでなさい」
彼女はそう言ってリビングを出て行った。
久しぶりの彼女の部屋。
可能性はゼロではない……。
そんな言葉が嬉しかった。
彩さん好きだよ、大好きだよ……愛してる。
嫌われていない事に安心したのか、俺は不覚にもそのまま眠りに就いてしまった。
背景画像 : Four seasons 様
MENUボタン : ウタノツバサ 様